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スキンのアンニュイから作品を作ってみませんか?
第9章 匿名希望【ビター・トラップ】
少し長いあいだ、彼の視線が探るように私を見ていた。
今さら別れの言い訳をした気恥ずかしさに耐えかね、たまらずグラスをぐいっと煽る。チョコレートに似た甘くも苦い香りが、鼻の奥に広がった。
これだから、忘れてなかった恋愛は困る。普段ならふらふらしないはずが、ほんのちょっと思い出に肩を押されただけで、簡単に道を外れてしまう。
「……出ようか」
静かな声で彼はそう落とすと、無表情で底に漂っていたワインを飲み干して、空になったグラスをテーブルに置いた。
「――……え」
「とぼけるなよ。そういうことじゃないの?」
言いながら彼は席を立ち、店員に会計を頼んだ。
こぼしてしまった自分の言葉が、まだそこで温度を持っている感情が、一瞬で彼にさらわれた気がした。
外に出る。一次会が終わったらしい会社員たちの群れがところどころで作る輪を避けながら、どちらともなく、駅から少しそれた方を目指す。
六月のぬるい風に揺さぶられた髪を邪魔に思い、左手で肩にかき集めた。ついでに盗み見た彼の目は、雑踏を割るように真っ直ぐ前に向けられていた。
「意外だわ」
「なにが?」
「黙って帰るんじゃないかって」
罵りも激高もせず、別れ際いつも私に向けていた笑顔で去るのかと思った。
「まあ、それでもよかったんだけど……」
彼は控えめに伸ばした人差し指で、私の行く手を示す。凝った趣向もなにもなさそうなビジネスホテルが、そこにそびえ立っている。
「……けど?」
「泣きそうになりながら言うからさ。君の感じてる顔、また見たくなった」
彼も当時のなにかを思い出したらしい。狡猾そうな笑みを私に向けたあと、自動ドアを颯爽とくぐっていった。
あてがわれた部屋は真っ暗だった。ありふれたダブルの客室だ。突き当たりに大きな窓とベランダがあって、その向こうにオレンジに光る東京タワーの先が見える。
部屋のドアが閉まった途端、噛み付くように唇を奪われた。
急なことに呼吸が詰まる。息継ぎに口を開けると、隙を見切られて舌の侵入を呆気なく許した。
「……っ、んっ……!」
今さら別れの言い訳をした気恥ずかしさに耐えかね、たまらずグラスをぐいっと煽る。チョコレートに似た甘くも苦い香りが、鼻の奥に広がった。
これだから、忘れてなかった恋愛は困る。普段ならふらふらしないはずが、ほんのちょっと思い出に肩を押されただけで、簡単に道を外れてしまう。
「……出ようか」
静かな声で彼はそう落とすと、無表情で底に漂っていたワインを飲み干して、空になったグラスをテーブルに置いた。
「――……え」
「とぼけるなよ。そういうことじゃないの?」
言いながら彼は席を立ち、店員に会計を頼んだ。
こぼしてしまった自分の言葉が、まだそこで温度を持っている感情が、一瞬で彼にさらわれた気がした。
外に出る。一次会が終わったらしい会社員たちの群れがところどころで作る輪を避けながら、どちらともなく、駅から少しそれた方を目指す。
六月のぬるい風に揺さぶられた髪を邪魔に思い、左手で肩にかき集めた。ついでに盗み見た彼の目は、雑踏を割るように真っ直ぐ前に向けられていた。
「意外だわ」
「なにが?」
「黙って帰るんじゃないかって」
罵りも激高もせず、別れ際いつも私に向けていた笑顔で去るのかと思った。
「まあ、それでもよかったんだけど……」
彼は控えめに伸ばした人差し指で、私の行く手を示す。凝った趣向もなにもなさそうなビジネスホテルが、そこにそびえ立っている。
「……けど?」
「泣きそうになりながら言うからさ。君の感じてる顔、また見たくなった」
彼も当時のなにかを思い出したらしい。狡猾そうな笑みを私に向けたあと、自動ドアを颯爽とくぐっていった。
あてがわれた部屋は真っ暗だった。ありふれたダブルの客室だ。突き当たりに大きな窓とベランダがあって、その向こうにオレンジに光る東京タワーの先が見える。
部屋のドアが閉まった途端、噛み付くように唇を奪われた。
急なことに呼吸が詰まる。息継ぎに口を開けると、隙を見切られて舌の侵入を呆気なく許した。
「……っ、んっ……!」