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銀行員 有田雄一、私は「女」で出世します
第9章 難攻不落の浅丘流本部
行方定めぬ雲水の 月諸ともに 西に行く…
彼は一節を唸ると、鉄紺の羽織をさらっと脱ぎ捨て、雪乃の手を取った。
「時雨西行だよ」
小鹿が小声で教えてくれた。そして、オーディオ機器から三味線の音が流れると、グレーの着物の浅丘と黒紋付きの雪乃が踊り始めた。
「素敵ねえ…」
指先まで神経の行き届いた手さばき、それに、足運び。これらのしなやかな身のこなしに、久美子がため息を漏らした。
「本物だよ。前にも言ったろう、俺たちのような座興踊りとは違うんだ」
小鹿も見とれていた。
「ははは、お粗末さまでした。雪乃ちゃんを見たら、急に踊りたくなっちゃって」
明るく笑う浅丘正巳は雪乃の手をしっかりと握り締めていた。
「いやあ、今日は楽しかった。また、遊びに来て下さい」
全て浅丘ペースで進み、有田たちは何も出来なかった。
「あれ、雪乃ちゃんは?」
「私、もう少し、先生のところにいるからって…」
「あ、そう。じゃあ、長居は無用だ。さあ、帰るか」
帰りの車の中、「手も足も出なかったなあ」と小鹿が言えば、「あれが本物の色男ね」と久美子が感心していた。
「でも、嫌われなかったよ」と縄秀が頷いていた。
「そうか?」
「間違いない。ここに何度来たか覚えていないが、踊りを見せるなんて、初めてだ」
そして、もう一度、「間違いない」と縄秀は頷いていた。
「有田、そういうことだから、じっくりいこうや」
小鹿は缶ビールを開けたが、有田には笑顔はなかった。副支店長と榎本課長の顔がちらつく。結局、成果なしか…営業会議で何て言うか、困ったなあ…有田はいよいよ追い込まれてしまった。