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第3章 誘い
 私は座席に掴まってゆっくりと立ち上がり、周囲に目を配りました。

 やはり、私達だけだ。

 今、この場に居るのは私とこの女だけ。強いていえば電車の運転士がいるが、これは一人に換算されない。

 息を呑みました。

 ……生唾と言った方がいいかもしれません。

 私は一度座って、深呼吸をしました。

 座席の肘置きを強く握り締めて、……落ち着けと心を諭しました。胸が高鳴っているのはほんの一時で、勘違いするなと。

 窓に映る彼女を見つめました。

 彼女は社会に出て間もない新緑。これから沢山の洗礼を受け、無数の試練を乗り越えなければならない芽生え立ての若葉。一日中張り詰めていた緊張がやっと解けて、今やっと帰路につき、この僅かな時間に疲れを癒しているのです。憶測ですが、明日になればまた大変な一日を過ごさなければならないことでしょう。

 そんな新社会人の寝込みに何をしようとしていたのか、私は自分の間違いにハッと気づきました。

 それは一人の人間を傷つけようとしていたこと。犯罪以前に、反道徳的であることを平気で考えていたという愚かさ。如何に疲れているからといって、そこから湧いて出てきた欲情を貪ることは許されない。悪者がよく言う身勝手な動機そのものであります。同じ社会人としてまるで笑えません。

 ……人生を……人の道を踏み外すんじゃない。 

 私は噴き出す欲情の蓋を閉め、心に釘を打ちました。

 家庭がある。社会的地位もある。あと十年もすれば晴れて定年。今が踏ん張り時のこの時期に、なんて馬鹿なことを考えたのだろう。泥酔して、終点で車掌に起こされたときの何倍も情けない思いです。

 しかし自分を戒めつつも、不甲斐ない心は高ぶっているままでした。

 よほど精神力の強い人ならいざしれず、私のような凡夫が意識を切り替えるには、もっと強い切っ掛けが必要でした。 

 
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