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片時雨を抱きしめて
第3章 第三章 記憶
先生はまた困ったように笑って、
「もうすぐ着くから、ね」
とだけ言った。
私はもう何も言えなくて、うん、とうなずいた。
これ以上、苦しくなるのは嫌だった。
五分ほど黙り込んだまま歩き、着いたのは先生に拾われたあの道筋だった。
暗くてよく見えなかったけれど、この辺りは見覚えがあった。
まったく知らない町並みだと思っていたけれど、暗くてわからないだけで、
あの雨の日、私はそんなに遠くには行っていなかったのか、と思った。
「ここ」
「うん。昨日のところ」
「昨日、ありがとう。先生に会ってなかったら、死んでたかも」
「ばかなこと言うな。もうすんなよ」
先生は怒ったように私をキッとにらみつけると、そのあと柔らかく笑った。
この人はどうしてこんなにも、柔らかく笑っていられるんだろう、と思った。
「こっから、自分で帰れる?」
構えていた言葉が、私の聴神経を通っていく。
「ひとりで、帰れる? 靴と上着、あげるから」
やわらかい笑みをうかべたまま、先生の声はこわばっていく。
_____やさしい、拒絶の気配がする。
「うん」
そんな風に、言われたら。
私はうなずくしかないじゃないか。
「また、月曜日」
先生は片手を少しだけあげて私の背中を見送った。
「うん、ありがとう、先生」
そのやさしい拒絶を避けるように、私は足早にその場所から去った。
少し歩けばもうそこは家の近所だった。
私はあてもなく町を歩いた。風はまだ冷たい。春の匂いは、まだしない。