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黒い瞳
第2章 淳子~3歳~
誰しも、3歳のころの記憶は、
ほとんどないのではないだろうか。
当然かもしれない。
だが淳子には、
脳裏にくっきりと思い出される光景がいくつかあるのだった。
たぶん、あれは夏、
もしくは初夏だったのではないか。
蒸し暑さの中、 なかなか寝付けずに、
布団の上で何度も寝返りを打った。
寝付けずにいたのは、
蒸し暑さのせいだけでなく、
隣の部屋から聞こえてくる罵り合いの声のせいだった。
二人の男女が激しく言い争っていた。
声色の高低の差によるものか、
女性の声が何を言っているのかは、
はっきり聞こえたものの、
男性の声はやけに低く、 ボソボソとしか聞こえず、
何を言っているのかは定かではなかった。
女性は「今さら、なにを言ってんのよ」とか
「もうお終(しま)いね」などと言っていた。
やがて、鍋なのだろうか、
床に落下する金属音が響いた。
バタバタと床を踏み鳴らす足音。
ふいに「なんだとぉ、この女(あま)」 と
男性の発する声が明確に聞き取れた。
その後、パンと肉を打つ音がした。
一瞬の静寂の後、大声で女性が泣き喚き始めた。
「出て行ってよ!もう、あなたの顔など見たくもないわ!」
「出て行くのは、てめえの方だろうが!」
再びパンという肉を打つ音。
バタバタと足の踏み鳴らす音。
やがてドスンと音がした後、再び静寂が訪れる。
静寂を打ち破ったのは、女性の声だった。
「いいわよ!こんな家、今すぐ出て行ってやるわ!」
「ああ、出て行け!この売女(ばいた)!」
ズルズルと床を這いずる音が、淳子の部屋に近づいてくる。
バンっ!とふすまが開かれ、
口から血を流した夜叉の形相をした母が淳子の枕元へやってきた。