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爛れる月面
第3章 広がる沙漠
「早く日本に帰ろうと思ったら、向こうでも仕事が捗った。素晴らしいね、モチベーションってやつは仕事には重要なんだと再認識した」
 引き続き、軽い口調で話す井上だったが、急に、「だから君に会う。何としてでもな」

 低い声が、スピーカーから耳道へと流れ込んでくる。
 ブラウスの中で、背が凍ごった。

「だから、本当に無理」
「錦糸町まで来たら電話してくれ」
「ね、聞いて──」

 電話が切れる。

 切断音を放つ携帯を、紅美子は見つめるしかなかった。シガレットケースは開いていたが、タバコを取り出すことなく、事務室へと戻り始める。

 簡単なことだ。行かなければいい。

 道すがら、当然の思いが沸き起こった。

 待ち合わせ場所に現れなければ、本当に、井上はここまで来るかもしれない。しかし今はもう取り返さなければならないものは無いのだから、騒ぎを起こしてやればいいだけのことなのだ。むしろ、あの男を陥れることができる、絶好のチャンスだ──

「早かったですね。もっとイチャイチャしてても良かったんですよ」
「あ、……うん」

 屋上から席までの道のりを、どう戻って来たのか怪しいまま事務を再開したが、明らかに、紗友美のキーボード音よりも打鍵が遅くなった。入力の見直しをすると、いくつかミスが簡単に見つかる。残りの伝票は多くはないが、もうすぐ三時である。絶対に間に合わない。

【──なに終業時間じゃなく、待ち合わせ時間で測ってんの?】

 最後の夜、ホテルの窓に映っていた長い髪の女が、意識の外側から語りかけてきた。

 もしもまた井上が来て、今度こそ騒ぎを起こせば、徹に知られないわけにはいかない。

 だが、一夜の惨禍と一週間の不実では、まったく事情が異なる。どちらも徹を苦しめるにちがいないが、後者はもう、苦悩という言葉では済収まらないだろう。間違いなく、彼は壊れてしまう。あの純粋で優しい恋人を、自分だけをずっと愛してくれている幼馴染を、粉々に叩き潰してしまう。
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