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爛れる月面
第2章 湿りの海
「……。そ、よかった。やっと私、解放されるんだ」
「僕を殺すんじゃなかったのか?」
「気が変わった。やめといたげる」
「こっちを向け」
「そうだ、そんならやっぱり明日、徹呼ぶことにしよっかな」
「……おい」
「生理がきても、口でしてあげればいいんでしょ。したことないけど、徹なら喜んでくれる」

 片足はなかなかカーペットから離れず、中途半端な前屈みで、垂れた髪の中に隠れて話をしていたが、

「……紅美子」

 井上が名を呼んだ瞬間、

「馴れ馴れしく呼び捨てにすんなっ!」

 ショーツを井上へと思い切り放り投げた。むろん到底届かず、床に落ちたその向こう側では、距離はあるのに鋭く光る両眼が、じっとこちらを見つめていた。

「もう二度と会わないから、元気でね」
「連絡先知ってるぞ、お互い」
「だからなに? 鳴っても絶対出ない」
「こっちに来いよ」
「帰るんだって。早くもう一回、徹に電話しなきゃ」
「来いよ、紅美子」
「だからっ……なんであんたなんかに……」

 井上の異変に気づいた紅美子は、そこで言葉を切った。

 ……片足が前に出る。次の足も。途中にあった、履くつもりだった下着を跨ぎ越え。
 近づくにつれて、また、こめかみの鈍痛が増していく。

「……。呼び捨てにすんな、って言ってるし」

 すぐ前まで行くと、静かに井上を見下ろした。

「僕もクミちゃん、って呼んでいいのか?」
「名前を呼ぶなっつってんの」

 腰を引き寄せられる。臍のそばに唇が触れる。
 滑らかな肌の上を、時おり音を鳴らして這っていく。

「なんで戻ってきてくれた」

 井上が話すと、髭が擦れた。叫びたい衝動とともに、背が震えた。

「これで最後って、思ったら、かわいそうになったから」
「どっちが?」
「そっちが」
 膝が折れそうになるのをこらえ、「……なんか大きくしてんだもん。気持ち悪い」
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