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熱帯夜に溺れる
第5章 沈殿する夏、静止する冬
 由貴の香りが鼻をかすめて懐かしいような、けれどほろ苦い感情が押し寄せる。

 チュ……チュゥ、チュ……、粘着く唾液の音と唇同士が擦れる音が実に卑猥で不快だった。こんなにも不愉快なだけのキスをどうして何故、強く拒めない?

 長いキスを終えて唇を離した由貴が純の胸元にしなだれかかった。

「ねぇ、純……。莉子ちゃんとの関係が終わってからでいい。私と付き合って」
「……旦那に浮気されたから浮気し返すのか?」
「それだけじゃない。私、やっぱり純が一番好きなのよ。結婚をゴールにしない恋愛だったら、あなたもアリなんでしょ? 恋人じゃなくてもセフレでもいいよ。私も旦那とご無沙汰なのよ。莉子ちゃんがいなくなってから、お互いの寂しさを慰め合おうよ」

 由貴の甘えた声に一瞬でも疼《うず》いた心は、かつて由貴を愛した過去の自分の残骸だ。由貴が好きだった、愛していた。
 けれどそれはもうセピア色の過去に過ぎない。

「悪いけど、由貴との関係は俺にはもう終わったことだ。莉子と別れた後でもお前とはやり直さない。身体の関係だけでいいなんて冗談でも口にするなよ」
「……冷たいね」
「当然の結論だ。今後は客として来ても、二度と俺の帰りを待たないでくれ。莉子とも会おうとするな」
「わかってるわよ。莉子ちゃんも私には会いたくないだろうしね」

 彼氏の元カノと遭遇して嬉しい女はいない。莉子は由貴について第一印象よりは良い人だったと評価していたけれど、それは由貴が莉子に対して年上の女の余裕を取り繕っていただけだ。

 ウェーブをかけた茶髪ボブの毛先が純の胸元を離れていく。彼女の目元の潤みに純は気付かないフリをした。ここで泣くのは卑怯だろう。
 涙で誘っても、純は由貴を受け入れる気はない。不倫の片棒を担がされるのは勘弁したい。

「女心をまったくわかっていないあなたに、ひとつ忠告しておく。女はね、無駄だとわかっていても引き留めて欲しいのよ。男がプライドかなぐり捨てて自分を必要としてくれる姿を見たいのよ。私だって、別れを切り出した時に本当はあなたに引き留めて欲しかった」
「何が言いたいか、さっぱりわからないな」
「〈物わかりのいい優しいオジサン〉も、女からすればつまらなく映るってこと。じゃあね」

 くるりと向きを変えた由貴のヒールの足音が遠ざかる。
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