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鬼の哭く沼
第7章 花は綻ぶ
最上階、再奥の間。
黒地に見事なうねる大波と、中天の月が金粉で描かれた襖絵の前に香夜は夜着の胸元を握って立った。正確には、胸元にある銀の蝶を、だ。
離れの中は自由にして良いという許可があったが、最上階には一度も来た事が無い。須王の私室のみがある階で、今まで用事なんて無かったし来たいとも思わなかったから。
そう、今までは。
そっと漆塗りの雅な引手に手を添えて襖を開ける。八畳程の控えの間があって、その奥にもう一枚同じ絵柄の襖が見えた。襖の前、一対の燭台が立っている。ほんの少し躊躇って、ぎりぎり通れるだけ開けた隙間から中へ入った。閉じられた二つ目の襖の前に立って、この部屋の主の名を呼ぶ。
「須王」
姿の見えない相手へ、呼び掛ける。反応は無い。須王がこの部屋に居る確信は無かったが、あの姿のまま他の何処にも行かないだろうとも思った。理由は無い。ただの勘だ。夜着の上から、懐に忍ばせた鱗に触れてもう一度呼ぶ。
「須王。話がしたいの」
ごそり、と中で何かが動く気配がする。返事は無いが、それにほっと肩の力を抜いてもう一歩襖に近寄った。出来る限り、距離を縮めたいと思った。
「須王が話したくなくても、私は勝手に話すから。聞きたくない、嫌だっていうんならそこから出てきて止めればいいよ」
ひねくれた物言いにも、やはり中からは何の返事も無い。出て来る気配も無い。しかし、聞いてくれているのだろうと思った。帰れとも出て行けとも言われないのだから、このまま話していても良いだろう。そう都合の良い解釈をして香夜は続ける。
「雨、止まないね…。さっきここへ来る時に外覗いたけど、まだ随分降ってた。実は私、雨がちょっと苦手というか…特に夜に降る雨が好きじゃ無くて。一人で寝るのが嫌で、今夜は雪花と風花と、一緒に寝たの。川の字で。家族みたいでしょ?」
小さく笑う。些細な思いつきに、嬉しそうにはしゃいでくれた双子の笑顔を思い出して。じじ、と蝋燭の灯心が燃える音がして、橙色の火が襖の金箔に弾かれて光る。
開かない襖。天岩戸の逸話のようだと思った。天照大神が隠れた岩戸を開く為、天鈿女命(あめのうずめのみこと)は愉しげに踊りを踊って気を引いたという。でも自分にそんな技術は無いから、こうしてただ話しかける事しか出来ない。