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鬼の哭く沼
第8章 溺れる魚

その呪いも、罪も、背負ったままでいいと言ってくれた只一つの存在の為に、今須王はある。須王の暗部を全て知っているわけではない。言うつもりも無い。それでも、見かけに因らず聡いあの娘は優しい瞳でまたこう言ってくれるのだろう。

『須王は、須王だから』と。

その言葉の甘やかな温かさを知ってしまったから。
もう、須王は他の誰のものにも成り得ない。

例えその為にまた、こうして罪が増えたとしても。


「下手を打ったな、貴蝶」


愚かな真似を、とは言わなかった。憐れみは気位の高い貴蝶が最も嫌うものの一つだから。
それ以上の言葉は不要と、代わりに鉄格子の隙間から木箱を一つ差し入れる。
ちらりとその箱に視線を向けた貴蝶の目が、初めて目に見えて揺らいだ。驚いたように箱と、須王を見比べる。
漆塗りの雅な箱は彼女が大切にしていた化粧箱だ。

何故、と白くひび割れた唇が呟く。

それは、貴蝶をイロにした時初めて請われて買い与えたものだった。
大して高価な物でも無かったのだが、現世のとある場所の木材を使ったものだと行商に説明された際、酷く懐かしそうにしていたから思わず欲しいのか、と尋ねたのだ。
故郷の木だ、と目を細めて答えた貴蝶が素直に強請ったので買い与えた。普段つんと澄ましていた彼女が子供の様な笑顔を見せたのはあれ一度きり。


「お前が一番大切にしていたものを、傍に置いてやれと」


誰に、とは訊かずとも分かる。
箱を手にしようと伸ばしかけた手が止まった。
女心など欠片も理解しようとしないこの鬼がまさかと思ったがそういう事かと思わず自嘲する。
貴蝶はゆっくりと、時間をかけて化粧箱を手に取るとそっと胸に抱いた。


「……お礼を申し上げます、楼主様。わたくしの、これは何物にも替え難き宝ゆえ」

「そうか」


慈しむように箱の表面を撫で、唇に笑みを刻む。そして目を閉じて呼吸を一つ。
箱を抱いたまま姿勢を正し、乱れた髪を撫でつけた貴蝶は先程までの硝子玉のような目につんと静謐な火を灯し。牢の鍵を開けて己の前に立つ須王を見上げた。
そこにあったのは、薔薇の花を思わせる傲慢で、艶やかな微笑。化粧も、美しい玉も、そんな何一つ無くとも貴蝶を飾る唯一絶対の美。



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