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鬼の哭く沼
第8章 溺れる魚
「鬼落ちってのは、鬼が角を折られて証を失う事を言うんだ。特に貴蝶みたいな鬼成りは、元々が人間だから角一つ無くすとあっと言う間に鬼でなくなる。でもだからって人間に戻れるわけじゃあない。どっちつかずの、中途半端なモンになっちまうんだと」
その中途半端なものを、幽鬼、と呼ぶ。読んで字の如し幽かに鬼であった者。
アタシも詳しくは知らないけどねえ、と苦く笑う。
「一度でも鬼になったモンにとって鬼落ちはそりゃあ屈辱なんだと。アタシは鬼が人間サマより高尚だなんて思わないけど。本人にとっちゃ一大事なんだろうさ。それにね。幽鬼になっちまうとこの幽世の空気は毒でしかない。陰の気とやらが元々多い場所だから、希薄な幽鬼には長い時間耐えられないんだそうだよ。だから、幽鬼になったら後はもう消えるしかない」
「消える…?」
「そうさ、霞みたいにふっとねえ」
掟破りへの重い刑罰たる所以。
元から何も無かったように、次第に空気に溶けて混ざるのだという。
消えてしまう。貴蝶が。
音の無い唇で、蒼白になって呟いた香夜の手の甲がさらりと撫でられる。少し呆れたような、優しい目で夕鶴が強張った香夜の顔を覗き込む。
「だから、アンタがそんな顔する必要ないんだよ。アンタを酷い目に合わせた女のことだってのに、心配してやるのかい」
「それは…だって。いくら好きじゃない相手でも、いきなり消えるなんて言われたら…」
「後味が悪いって?」
「……うん」
例え偽善と言われても良い。嫌なものは嫌なのだ。
正直に頷くと夕鶴は笑う。
「アンタって子はほんと、心根が真っ直ぐなんだねえ。楼主様もこてんと落ちる訳だ」
「双子もあっと言う間に懐いたそうだしねえ」
「私たちもね。はは、天性の人たらしだ」
「違いない」
「え、いや別に私は…!」
大人しく口を噤んでいた桔梗と菊月にも囃したてられ、慌てる香夜に夕鶴は眩しげに目を細める。
「まあ今回の件で、貴蝶はいくつも掟を破ったからね。鬼落ちは正当な罰さね。だけど安心おし、貴蝶は消えやしないから。鬼落ちの後、黄泉送りにされるそうだよ」
「黄泉送り…」
「消えちまう前に、黄泉に送られるのさ。黄泉に行けば消えずに済む上に、きちんと罪を償えばまた輪廻の輪に戻して貰えるってさ」
人として、また生まれる事が出来るように。