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小綺麗な部屋
第1章 雪崩

 靴の先の空気を蹴る。
 歩くというのはそういうことだ。
 朝の冷えたとも涼しいとも部類できない空気の中をふらりふらり進む。
 早く倒れこまなきゃ。
 今すぐワープが開発されればいいのに。
 国民一斉に使えるやつ。
 あ、年齢制限なら二十五歳以上とかで。
 認証番号だけですっと。
 ベッドに着地。
 ああ、いいなそれ。
 改札を抜けて出社するスーツ軍団を避けるように足早に路地に逃げ込む。
 うるせえ足音。
 誰に聞かせてんの。
 そう呟きたくなるのも毎度のこと。
 やっと帰れる。
 やっと休める。
 その事実さえあれば買っておいた朝食になど指も動かない。
 鍵を胸ポケットから取り出し、ハリボテのようなアーチを抜けて一番奥の垂れ下がった木の枝が届きそうな角部屋の扉に向かう。
 郵便物は公共料金の催促だけのようだ。
 クレジットカードを変えたから更新手続きをしないと。
 とにかく入ろう。
 愛しい我が家に。
 時計を鳴らして右手でドアノブを回し、薄暗い室内に滑り込むと扉が閉まるまで腕を引いた。
 即座に鍵とチェーンで施錠をし、踵で靴を脱いで陽光の感じられない廊下を進む。
 湿気から解放された爪先が踊るようだ。
「お疲れだ」
 低い声で呟いて、一つしかない扉を開いた。
 見慣れた景色に包まれる。
 真っ白な壁に磨りガラス越しに見えるベランダ。
 淡い桜色の床のニスは、この間お湯を零した場所を除いて入居した当時と同じく微かに光る。
 壁から二十センチ離したベッドは黒の支柱にインド綿のシーツが垂れる。
 高反発マットに水枕。
 最上の組み合わせ。
 さあ、主人を寝かせろ。
 膝をついてから倒れこむ。
 手から買い物袋を落とし、目を閉じた。
 柔らかい感触に微かな芳香剤の香り。
 あるのはこのベッドだけ。
 あとはクッションが二つ。
 ここは浦田響の別荘だった。
 二十歳で当てた宝くじ三億円のうち三百万で購入した一室。
 生涯維持費を五百万として口座を分けると、そこは彼の寝室となった。
 都心での仕事に北関東の家まで帰る気力を吸い取られた際に逃げるオアシス。
 ハイムルフナ八号室。
 静寂だけがあればよかった。
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