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透明なリーシュに結ばれて
第13章 desertion
 僕はコーヒー代を陸男が置いていった一万円で払った。店員(おそらく店のマスター)は僕にお釣りを渡そうとしたが、僕はそれを辞退した。それは僕が受け取るべきお金ではない。
「ご迷惑をおかけしました」
 僕がそう言ったとき、店のマスターは不思議そうな顔をしていた。
 店の外に出るとひんやりとした風を感じた。風なんか吹いていないのかもしれない。でも僕の体の内側には間違いなく風が吹き込んでいた。
 陸男にかけられた水は僕の背中や胸にまでも達していた。後味の悪い冷たさが僕にまとわりつく。
 風邪をひくかもしれないなんて心配はしなかった。というより、僕の中から思考という作業が停止している。とにかく考えることが億劫なのだ。
 断っておく、それは陸男から自分の将来を人質にされて僕がビビっているからではない。大して自分の未来に期待なんかしていないし、僕自身、僕が将来大成功するような人間でないことはわかっている(こんなことを自分で言っても悲しくもなんともない)。
 空白、人はそれを空っぽと言う。僕は空っぽの人間になってしまった。
 空っぽの人間にも帰巣本能だけはあるのだろうか、僕はずっと歩き続けた。真っすぐ、それから右に曲がって、そして左に曲がる。僕は僕の帰るべき場所に向かっている。でも……。でも僕の帰るべき場所はどこなのだろうか? 僕はそこで温かく迎えられるのだろうか?
 ぞくぞくとした寒さがずっと僕を追いかけ回している。そんなときだった。
 僕の携帯の着信音が鳴った。無視することもできた。いや、無視すればよかったのだ。でも僕はスマホを手に取り電話に出たのだ。
「はい」
「……」
 無言。
「誰?」
「……」
 応答する気配なし。
「切るけど」
 僕がそう言うと向こうからようやく声がした。
「できたんですけど」
 若い女の声だった。
「はぁ?」
 電話の相手が何を言っているのかわからなかった。
「だからできたと言っているんですけど」
「誰だよお前」
「薄情という言葉が翔にはピッタリ」
「……」
 僕は声の主を記憶の中から探した。あいつだった。
「翔の赤ちゃんができたみたなんですけど」
「……」
「どうしてくれるの?」
「ふざけるな!ふざけるな!ふざけるな!」
 僕はそう言ってスマホを地面に叩きつけた。
 僕は本当に空っぽになった。

 了
 
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