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ネコの運ぶ夢
第14章 ネコの秘密
それでも私は中条の家で養われていたのですが、唯一の肉親である母は私に構うことは殆どありませんでした。
生来、母は子育てに向かない人間だったのです。子どもを可愛がるより、自分がいかに人から愛でられるかばかりを考えているような人でした。ひっきょう、私の世話は主に使用人に任されることになりました。
京介は京介で、実の子である京子や康介と、私を露骨に差別しました。京子や康介の誕生日には、友人知人を呼んで盛大にお祝いしていた傍らで、私は家族からすらろくに祝ってもらえませんでした。
ハンバーグをつくってくれた時、泣いちゃいましたよね?あの日、正確には、あの次の日が私の誕生日だったんです。誰かと誕生日を祝いたいって、ずっと思っていたから、とても嬉しかった。プレゼントもありがとう。あの時、ちゃんと言えなくて、ごめんなさい。
話を戻しますね。血筋のせいでしょうか、京子も、康介も出来が良く、学校での成績も常にトップクラスで将来を嘱望され続けたのです。でも、私はそれほど出来が良くありませんでした。
これが、ふたつ目の理由です。
中条の家には「家の人間たるためには、家のためになることをしろ」という教えがあります。裏を返すと、役に立たないものは家から出ていけということです。実際、昭和の時代までは、才のない者を勘当同然に放り出すことは珍しくなかったそうです。
京子は学生時代からカリスマ性があり、人を率いる能力は人一倍でした。京介もそれを認めています。慶応大学を卒業後、京介の助力を得ながらとはいえ、起業をし、あっという間に上場させるだけの才能を発揮しました。
康介も親の期待通りに育ち、一流高校から東大に進学しました。姉に倣って小さいながらもスタートアップ企業を立ち上げ軌道に乗せるなど、京介を満足させる結果を出しています。
私は幼い頃から、人前に立ったりするのが苦手でしたし、他の二人ほど目を見張るような成績を上げることはありませんでした。なので、小学校の頃は、テストの点が悪くて、逆上した京介から「出ていけ!」と怒鳴られることが何度もありました。
母は決して私を助けることはありませんでした。私に組みすれば自分が不利になることが分かっていたからです。
京子や康介はそんな私を笑って見ていました。
生来、母は子育てに向かない人間だったのです。子どもを可愛がるより、自分がいかに人から愛でられるかばかりを考えているような人でした。ひっきょう、私の世話は主に使用人に任されることになりました。
京介は京介で、実の子である京子や康介と、私を露骨に差別しました。京子や康介の誕生日には、友人知人を呼んで盛大にお祝いしていた傍らで、私は家族からすらろくに祝ってもらえませんでした。
ハンバーグをつくってくれた時、泣いちゃいましたよね?あの日、正確には、あの次の日が私の誕生日だったんです。誰かと誕生日を祝いたいって、ずっと思っていたから、とても嬉しかった。プレゼントもありがとう。あの時、ちゃんと言えなくて、ごめんなさい。
話を戻しますね。血筋のせいでしょうか、京子も、康介も出来が良く、学校での成績も常にトップクラスで将来を嘱望され続けたのです。でも、私はそれほど出来が良くありませんでした。
これが、ふたつ目の理由です。
中条の家には「家の人間たるためには、家のためになることをしろ」という教えがあります。裏を返すと、役に立たないものは家から出ていけということです。実際、昭和の時代までは、才のない者を勘当同然に放り出すことは珍しくなかったそうです。
京子は学生時代からカリスマ性があり、人を率いる能力は人一倍でした。京介もそれを認めています。慶応大学を卒業後、京介の助力を得ながらとはいえ、起業をし、あっという間に上場させるだけの才能を発揮しました。
康介も親の期待通りに育ち、一流高校から東大に進学しました。姉に倣って小さいながらもスタートアップ企業を立ち上げ軌道に乗せるなど、京介を満足させる結果を出しています。
私は幼い頃から、人前に立ったりするのが苦手でしたし、他の二人ほど目を見張るような成績を上げることはありませんでした。なので、小学校の頃は、テストの点が悪くて、逆上した京介から「出ていけ!」と怒鳴られることが何度もありました。
母は決して私を助けることはありませんでした。私に組みすれば自分が不利になることが分かっていたからです。
京子や康介はそんな私を笑って見ていました。