この作品は18歳未満閲覧禁止です

- 小
- 中
- 大
- テキストサイズ
舞台の灯が消える前に
第1章 光のあたらない場所

午後七時、仕事を終え、重たいバッグを肩に下げて駅の階段を上がる。あたりはもう暗く、ビルの谷間に落ちる風だけが季節を告げていた。春の気配と、まだ冷たい夜気。その狭間に、奈央は立っていた。
マンションの扉を開けると、リビングの明かりはついていない。智也はまだ帰っていないらしい。しんとした部屋に足を踏み入れると、どこか空虚な匂いがした。洗い残したマグカップ、しぼみかけた観葉植物、半分開いたカーテン。そこにあるべき熱を、何かが取りこぼしている。
奈央はコートを脱ぎ、台所に立つ。無意識に冷蔵庫を開け、卵を手に取ってから、それを戻した。
「……食べたくない」
声に出すと、少しだけ楽になった。
ソファに腰を下ろす。静かすぎる空間が、時折軋む。奈央はスマホを手に取り、ふと思い出したようにスクロールする。先日、会社の帰りに駅前で受け取った、小劇団の公演チラシ。
指が震える。――クリック。その場で「見学希望」のフォームを送信してしまった。衝動的だった。でも、もう止めようとは思わなかった。
その夜、智也が帰宅したのは十一時過ぎ。ネクタイを緩めた彼は、奈央の髪に軽く触れながらキッチンで水を飲んだ。言葉少なに並んだ二人の影が、廊下に伸びて揺れる。
「今日さ、急に社長同行になってさ。疲れた」
そう言って彼はシャツのボタンを外しながら、ベッドに腰を下ろした。奈央も、それを追うように静かに近づいた。
肌が触れる。首筋に落ちる、夜の気配。キスの代わりに指先が腰に触れたとき、奈央はほんのわずかに身を引いた。
彼の動きが止まる。
「……どうした?」
「ううん、なんでもない」
その瞬間、自分が嘘をついたと奈央は思った。
それは彼に対してではなく、自分自身への嘘。
触れられたいのではなく、何かに“触れたい”のだ――たとえば、それが演劇という幻のような灯火であっても。
布団のなかで目を閉じたまま、奈央は考えていた。
このぬくもりがいつか冷めるなら、自分の手で確かめてみたい。舞台の上で、生まれ変わるような瞬間を。
そして――その先に待つものが、恋なのか、裏切りなのか、それとも自分だけの生き方なのか。まだ彼女は知らなかった。
マンションの扉を開けると、リビングの明かりはついていない。智也はまだ帰っていないらしい。しんとした部屋に足を踏み入れると、どこか空虚な匂いがした。洗い残したマグカップ、しぼみかけた観葉植物、半分開いたカーテン。そこにあるべき熱を、何かが取りこぼしている。
奈央はコートを脱ぎ、台所に立つ。無意識に冷蔵庫を開け、卵を手に取ってから、それを戻した。
「……食べたくない」
声に出すと、少しだけ楽になった。
ソファに腰を下ろす。静かすぎる空間が、時折軋む。奈央はスマホを手に取り、ふと思い出したようにスクロールする。先日、会社の帰りに駅前で受け取った、小劇団の公演チラシ。
指が震える。――クリック。その場で「見学希望」のフォームを送信してしまった。衝動的だった。でも、もう止めようとは思わなかった。
その夜、智也が帰宅したのは十一時過ぎ。ネクタイを緩めた彼は、奈央の髪に軽く触れながらキッチンで水を飲んだ。言葉少なに並んだ二人の影が、廊下に伸びて揺れる。
「今日さ、急に社長同行になってさ。疲れた」
そう言って彼はシャツのボタンを外しながら、ベッドに腰を下ろした。奈央も、それを追うように静かに近づいた。
肌が触れる。首筋に落ちる、夜の気配。キスの代わりに指先が腰に触れたとき、奈央はほんのわずかに身を引いた。
彼の動きが止まる。
「……どうした?」
「ううん、なんでもない」
その瞬間、自分が嘘をついたと奈央は思った。
それは彼に対してではなく、自分自身への嘘。
触れられたいのではなく、何かに“触れたい”のだ――たとえば、それが演劇という幻のような灯火であっても。
布団のなかで目を閉じたまま、奈央は考えていた。
このぬくもりがいつか冷めるなら、自分の手で確かめてみたい。舞台の上で、生まれ変わるような瞬間を。
そして――その先に待つものが、恋なのか、裏切りなのか、それとも自分だけの生き方なのか。まだ彼女は知らなかった。

