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恋かるた
第8章 身も焦がれつつ -卯月-

「やっぱり温泉っていいね」
夕食の席について、目の前に並んだ海鮮料理を見ながら、うきうきした顔の瑞穂が言った。
娘とふたりの温泉など、経済的にもそんな余裕のなかった志織にとって初めてのことだった。
「また来れるといいね」
「これから平日は無理だもんね」
「そうね…」
「バイトでお金貯めるから、また来ようよ」
母を思う瑞穂のことばに志織は思わず箸を落としそうなった。
「あしたはお天気良さそうだから日の出が見られるね」
「早起きしなきゃ」
夕陽を見るか朝日を見るかでふたりの意見が割れたが、結局縁起を担いで日の出を部屋から見ることができる外房の宿を選んだのだった。
瑞穂の合格祝いを兼ねて奮発した母娘の小さな旅だった。
「お父さん、ほんとうはもう一度やり直したいと思ってるのかもよ…」
布団に入ってから瑞穂がぼそっとそう志織につぶやいた。
「え? なんで今さらまた…」
「なんとなくそんな気がするの」
「何か言われたの?」
「言われてないけど、ずいぶん反省して後悔してるみたいだよ。
お母さん変わりないかって、よく聞かれるし…」
ひと呼吸おいてから志織が応える。
「お母さんは考えてないわよ」
「そう…」
瑞穂はそれきりその話を続けることはなかったが、灯りを消してからしばらく志織の頭には澱のように残った。
「5時41分だって」
珍しく先に起きた瑞穂が日の出の時刻を調べて志織に言った。
「空がすごくきれいね」
浜辺を犬と散歩をしている人が、そして遥か向こうには貨物船らしい大きな船が見える。
水平線から空へ刻々と移り変わる明け方の藍色のグラデーションは大きな窓から見ていて飽きなかった。
窓際の古い籐椅子に並んで腰をかけ、朝焼けの景色を眺めていた母娘の前に一瞬朱い光が上空をめがけて走ると金色の一片が顔を現わした。
「わあ、すごい!」
スマホを構えていた瑞穂が歓声を上げる。
「すごいわねえ…」
それを追うように志織も感動の声を上げた。
蛹から脱皮する蝶のように陽はたちまち全身を水平線の上に現わすと、その反映が静かな海面にまっすぐに落ちて伸びる。
お互いに口には出さなかったが、この穏やかな時間を持てたことを母娘は静かに感謝していた房総の海の朝だった。

