この作品は18歳未満閲覧禁止です

- 小
- 中
- 大
- テキストサイズ
いまやめないで このままでいて
第5章 第5話 過ぎた日の思い出を彼にあずけて

(どこかで会った人のような気がするな)
坂田智弘は支払いをしながら、48歳になった自分より少しだけ若く見える彼女のわずかに憂いを帯びた表情を見て思った。
営業部長として単身赴任生活をする1室だけのマンションは無機質だったから、彼は時々切り花を買うのが習慣になっていた。
普段は野菜を探す産直の店でついでに買うことが多いのだが、その日は勤め帰りの駅からの帰り道でいつもと違う脇道を何気なく通ったときに見つけた小さな花屋に寄ってみたのだった。
『花かすみ』と筆文字で書かれた小さなサインが掛けられた店先のウィンドウディスプレーに惹かれたのである。
少しだけ迷ってから日持ちのする白と赤のヒペリカム、それにカスミソウを添えてもらった。
「お使いものですか?」
ラッピングをどうするか静かに訊ねられて、彼は応える。
「いえ、自宅用だから、そのままでいいです」
かしこまりました、と応えて薄紙で巻いてくれる女性を見ながら、彼はそれが誰だったかを思い出せずにいた。
「ヒペリカム、かわいくていいですよね」
「ぼく、これが好きなんです」
「あって良かったです。 ありがとうございました」
入荷しないことが多いので、と言いながら彼女は坂田の眼を見て微笑みながらおじぎをした。
少し歩いてから坂田が振り返ったとき、シャッターの中柱を立てようとしていて偶然眼が合った彼女がもう一度丁寧に頭を下げたので、つられて彼も小さく会釈を返した。
(この道もいいな…)
誰だっけ、と考え続けながら紫陽花の咲く道を、待つ人のいない部屋へ向かってゆっくりとした足取りで歩を進める彼の横を自転車の学生が追い越していった。

