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いまやめないで このままでいて
第8章 第8話 知らなかったこの震える悦びを
その日、“クレマチス”さんは待ち合わせていた帝国ホテルのロビーに現れなかった。
いや、確かに現れたはずなのだが、彼女が栗原浩二の前に来ることはなかった。
しかし、あれは間違いなく“クレマチス”さんだった、そして宇田川奈津子だったと彼は確信していた。
つつじが咲き乱れる5月のある日、既婚者向けのマッチングサイトで出会った“クレマチス”さんを日比谷の帝国ホテルの広いロビーで、栗原は待っていた。
初めてのメッセージ交換のあと数回のメールのやり取りを交わし、1か月ほどで会ってみることになったのである。
白のトップスに黒のボーダーが入ったロングスカート、同じ黒のショルダーバッグでまいります、と前日受け取った彼女のメールにはそう書かれていた。
目立たない装いを選んでいることがなんとなく彼には理解できた。
スーツ姿の男は大勢いるので、少しわかりやすいように赤の映えるネクタイを着けていることを彼女には知らせ、携帯電話の番号も教えてあったから会えないことはないと思っていたが、ほんとうに来てくれるかどうかは自信がなかったのだ。
彼女の気持ちを考えて、落ち着きがある中でも適度に人の往来がある静か過ぎない場所を選んだのは彼だった。
広いラウンジのあるロビーの大きな柱の横でエントランスのほうを見ていた栗原は、知らされていた装いの女性が約束の時刻の少し前に入ってくるのが見えた。
眼が慣れないのか、あたりをゆっくりと見渡しながら彼女は少しずつ暗いロビーへ入ってくる。
声をかけてもらうことを選んでいた彼は、ネクタイがわかりやすく見える姿勢で、スマホを眺める素振りをしながら視線の端に彼女の姿を入れていた。
少し近づいてきた彼女がこちらを向いたそのとき、あっと思った彼は思わず視線を上げそうになった。
それは、まぎれもなく自分の店でパート勤めをしている宇田川奈津子だと思ったのだ。
そして、それとほとんど同時に、視線をそらした彼女は一瞬立ち止まると踵を返すようにしてゆっくりと彼のそばを離れて行ったのだった。
鈴を小さく鳴らしながら待ち合わせ客を探すボードを持ったフロントマンが、彼の横を静かに通り過ぎて行った。

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