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鈴(REI)~その先にあるものは~
第1章 序章~萌黄の風~
 そして、良人小五郎にとっても、幹之進は生涯の恩人でもある。大百姓ならともかく、小五郎の実父稲吉(いなきち)は地主からわずかな土地を借りて細々と暮らす小作にすぎなかった。その伜がたとえ二百石とはいえ、藩に仕える譜代の家臣相田家に養子として迎えられ、更に名門柳井道場の跡継ぎとなったのである。剣や軍功で立身できた戦国乱世の世ならともかく、今は天下泰平の世であり、普通では考えられない立身出世だ。
 言わば、夫婦二人ともに、亡き先代の道場主幹之進には言葉に尽くせぬ恩義があった。ほんの一年余りに満たないが、小五郎を迎えてからのわずかな間、柳井家では幹之進を父として、小五郎、お香代と三人が実の親子のように肩を寄せ合って暮らした。早くに実の両親を失い、老いた祖父の手で育てられたお香代にとって、十三で柳井家の養女となり、幹之進を父として暮らした数年は、実の父と過ごしたようなほのぼのとした心温まる時期でもあった。また、幹之進は惚れ抜いた小五郎と添わせてくれた縁結びの神となってくれた人でもある。
 その恩に報いるためにも、良人と力を合わせて父の残した柳井道場をいっそう盛り立ててゆくのが我が務めとお香代は思い定めている。恐らくは、良人小五郎の想いも同様だろう。
 ザッと音がして、お香代はその物音にハッと現実に引き戻された。いつしか、真っ白な毛並みを持つ兎はいずこかへと消えていた。緑の茂みに白い毛玉が吸い込まれてゆくのを最後に見かけた後、辺りは水を打ったような静けさに包まれた。
―行ってしまった。
 お香代は一抹の淋しさを感じながら、兎の消えた方を見つめた。
 小五郎と夫婦となって三年の月日を数えるが、二人の間には子宝は一向に恵まれなかった。
―なに、あまりに仲睦まじいのは、かえって子に恵まれぬというぞ。焦ることはない、小五郎もお香代どのもまだ若いのだ。そのうち、子とは山ほどもできよう。
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