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星と僕たちのあいだに
第10章 揺らぐ鬼火
ふたりは冷水で汗を流し、早苗は水風呂につかったが、佐和は心臓があまり良くないのだと言って、手足に冷水を浴びただけで丁寧に体をふいた。
休憩室で水を飲んだあと露天風呂に入ろうと佐和が言い、直通のエレベーターで屋上へ上がった。
山奥の秘湯をイメージした屋上施設はたいそう手のこんだ立派なもので、実物と見まごうほどの竹林と自然石で空間装飾が施され、水底にともるガーデンランプが湯の奥でぼんやり揺れていた。
見上げれば、都会の灯りにあぶられた青黒い夜空に、穴があいたように白い月があった。
早苗は湯につかるなり、佐和の正面に移動した。
話の続きをねだるように顔を向ける早苗にたじろぎつつ、佐和は落ちついた調子で昔話を続けた。
『私が求めたのと同じように、
私は私の知らないところで
彼に求められ続けてた。
なんていうのか、
くやしかったわ……。
男ならどうしてここへ
迎えに来てくれなかったのって。
手紙を送りつけて
私からの返事を待つなんてひどすぎる。
あのときの私は、
もう一度さらいに来てくれるのを
一日千秋の思いで待ってたのよ。
だから私はなんだか腹がたって
その手紙を裏庭ですべて燃したの。
それで心の中の彼への想いに
幕引きしようって決めたのよ。
でも無駄な抵抗だった。
その手紙は現実の彼以上に、
私の中に居座り続けたわ。
燃したことを後悔しちゃった。
だって失ってしまったことで、
愛の言葉も彼の悲しみも、
私の中で永遠に生き続けるんですもの。
夫の元に戻ったあとも、
結婚する前よりまして、
私は前の恋人の幻影に束縛されたわ。
どれだけ烈しく夫に愛されようとも、
そうされればされるほど、
夫に申しわけないと思いながら、
私は燃した手紙と前の恋人を想ってたの。
夫の家で、あの寝室で、
暗闇で私を抱いていたのは、
夫じゃなかったのよ……』
佐和の大きな深呼吸は、湯面をたゆとう微細な気泡を押し戻した。
細かく泡立った湯をもてあそぶ佐和が、心なしか微笑んでいるように見える。
手のひらにすくった湯がつたう手首には、腕時計のあととは別に横一文字に太い傷跡があった。
結んだ唇を少しずらした佐和の横顔が、佐和自身の正直さを自讃しているように、早苗には映った。