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愚者の唇
第1章 愚者の唇
ワンルームのアパートの扉を叩く、ノックの音がした。
日付の替わったこんな真夜中。
外は大雨の台風で、聞き間違いだと思いたいのに、音の回数が5回。間違いない。
また連絡もなく、彼は訪れる。
メールや電話で証拠を残したくないのはわかるが、なぜインターフォンすら使わないのだ。
慌てて、まどろみかけていたベッドから飛び起き、玄関に駆けつけた。
私は用心に用心を重ねているはずのチェーンと鍵をふたつ、覗き穴を見ることもなくあけてしまった。
「遅い」
数時間ぶりの再会に挨拶もなく、私の会社の上司は、不機嫌にそう言った。
背後の雷鳴と雨の匂いに混じり、会社で会った時よりも数段濃くなったアクアディジオの香りのスーツが、私の体を乱暴に横に押しやり、無断で部屋に侵入していった。
「申し訳、ありません…」
正直怖い。こんなに怖い人は今まで生きてきて、初めて会ったってくらい怖い。
このアパートと駅までの間にコンビニがないことを、前回来た時にものすごく怒っていた。
これ以上機嫌を損ねたくなくて、会社からの終電を使い駅から来たらしいズブ濡れの彼に、バスタオルを差し出した。