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愚者の唇
第1章 愚者の唇


彼はぐったりとヒクつく私を鮮やかに無視し、素早く衣服を整え、残された時間を確認した。
まだ息があがっているものの、倒錯した毒気の全てをゴムのなかに吐きだし、冷静さを取り戻した男は、さっきまでとは別人のようだ。

私は今、一体誰に抱かれたのだろう。

纏った濡れたスーツに消え残るアクアディジオの香りだけが、彼が他の誰かと入れ換わっていないことを示している。広告モデルのLars Burmeister、クールで耽美な口元が、ちょっとだけ彼に似てる。

私が海の向こうの人のことなんて考えていたら、すぐそばにいる別の女のことを思い出された。


「帰る。日付変わって、嫁さん誕生日なんだ…
誰かのせいでなにも用意出来なかったから、とりあえずコンビニ寄らないと」

今日彼が仕事から帰れなくなった理由を作ったグズな私はまだ、Tシャツを元に戻しただけだ。

日付が変わって今日ならば、明日の会社帰りで間にあうではないか。
でもそれを言ったら、きっとまた怖い顔をする。私はますます、彼の帰りを寂しく思うことになる。



「ケーキ、…あります。お持ちになりますか」

同期の男の子が、元気出して、と帰り際の駅ビルで買ってくれた。
落ちこぼれの私にいつも優しいその男の子は、私があそこまで叱られた理由を正直に説明したとしても、きっと理解できないだろう。




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