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ただ一つの一対
第9章 ただ一つの一対
 
「……叔父さん」

 菖蒲は菊を抱き寄せ、背中に手を回す。愛しい人が、他の女を思って涙を流す。それは菖蒲に暗い影を落とすが、憎いとはどうしても思えなかった。

 もう何十年と涸れていた涙は、菖蒲の温もりをもってしても止まらない。菖蒲はただそれを受け止め、許し続けた。

「今は離れてても、きっとまたいつか会えるよ。だって、片倉さんは一番叔父さんを想ってくれた人だもん。あたしも、ちゃんとお礼言わないと。片倉さんに、ありがとうって――」

「……ええ、きっといつか会えます。いつか、きっと……」

 菊の手は、それが叶わない夢である事を知っている。片倉が果てるその時まで、ずっと絞めていたのは紛れもなく菊の両手なのだから。菊は両拳を握り、柔らかな感触を思い出す。失った影を、汚れた両手に求めた。

 片倉と呼ばれた女の復讐は、長い時を掛けて果たされた。則宗は求めた息子の行方を永久に知らぬまま生きる事となり、宗一郎は娘を失った。そして菊もまた、失った命を再びその手に掴む事は出来なかった。

 片倉という女は今、深い海の底へ静かに沈んでいる。一度は待ちぼうけとなったその土地で、何を思うのか。誰かを待つのか、何かを見守るのか、それは彼女を弔った父親・左月ですら知るところではない。

 だが海は朝日に照らされ夕日に染まり、夜を静かに見守る。涙と同じ塩辛い波を寄せては返し、近付きながら遠く離れて――



おわり


 
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