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陽炎 ー第二夜ー
第1章 女郎蜘蛛

「おっさん、何ちんたら歩ってんだ。邪魔だよ」

いきなり後ろから声がした。
足の悪い身で、杖を頼りにゆっくりと歩を進めていた儂は、道を譲ろうと少し横にずれる。

この手の罵声は聞き慣れていたから、特に何とも思わなかった。

だが、その声の主が続けた言葉は、意外なものだった。

「てめぇでてめぇの身体支えらンねぇってんならよ、半分くらい背負ってやるよ」

杖と反対側の、左の脇がふいに持ち上がり、ぐい、と人の首が入ってくる。

あまりのことに驚き、杖を取り落しそうになった。
が、左側をしっかりと人が支えているので転けることはなかった。

「あんたの話、面白かったぜ。」

先程童共に垂れていた講釈を聞いていたらしい。

「続きを俺ンとこ来て聞かせてくれねぇか?」

そういってニヤリと笑う男の顔には、右目の下から顎にかけて、大きな鉤裂きのような傷があった。

長く伸ばした髪をぞんざいに縛り、着物を着崩した姿はどう見ても堅気の風体ではない。

だが、真っ直ぐに前を見る、強い目を持っていた。

その男は、儂の歩調に併せながらゆっくりと歩いた。

そして、

「来るかい?いい酒があるんだ。」

そう言ってニッと笑う。まるで童のような邪気のない笑みだった。

表情がころころと変わる。

これは…天性のものかは判らぬが相当な人たらしよ…と目を逸らし、口角を吊り上げる。

「俺は市九郎ってんだ。おっさんは?」

「兵衛だ。おっさんなどと無礼な。儂はまだ三十五じゃ」

「おっさんじゃねぇか。
俺よか十も上だ。…で、来るの?来ねぇの?
酒好きだろ?」

「なぜそう思う?」

「俺と同じ匂いがするからさ。酒好きのな」

儂はふ、と笑い。

「参ろうか」

と続けた。

あの日も、今日のような、うだるような夏の日であった…
あれから早十年。

今でもありありと思い出せるが、あの男はもう居らぬ。

儂は、再び一人で歩き出した…
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