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第8章 引き返せない
ホテルを出るころには、火曜日になっていた。
早足で駅に向かい、終電にギリギリ飛び乗る。
前田課長も、終電には間に合いそうだと言っていた。

バッグからスマホを取り出す。

土曜日、こないだのお詫びに、メシおごるよ。

和俊からのLINEを読み、ひとつため息をつく。

やったー!
楽しみにしてる!

返事をして、またため息をついた。


どうかしている。
こんなふうに、返信しているわたしは、どうかしている。

大切にしてくれている人がいるのに、他の男の人とあんなことをしている。
まだよく知らない男の人と。
それも妻子ある男の人と。

遊ばれているだけなのかもしれない。
からかわれているだけなのかもしれない。
痛い目に遭うかもしれない。

けれど…
それでもいいとすら思っている自分がいる。
痛い目も悪くない。
どうして、こんなに前田課長を拒めないのだろう。



右手の薬指にある指輪を触ってみる。
1月、亜沙子の24歳の誕生日に、和俊からプレゼントされた。

友人から紹介されて、和俊と出会ったのは大学を卒業する直前だった。
明るくて、優しくて、一緒にいるととにかくたくさん笑った。

春、お互いに社会人になり、生活に慣れるのでいっぱいいっぱいだったけど、時間を見つけてごはんを食べたり、映画に行ったりしてお互いを知っていった。
夏がくる頃、和俊から告白されたときは、とても嬉しかった。

お酒の力を利用して関係を持つというような身も蓋もない始まりではない。

それから2年半近く、和俊はわたしをとても大切にしてくれている。
甘い甘い関係というわけではないが、会うと安心するし、もちろんセックスもする。
なんの不満もない。

亜沙子は頭を小さく振った。
きっと、わたしが断れば、前田課長も強引なことはしないはずだ。
わたしは自分の意思で前田課長と一緒にいる。


電車が駅に滑り込む。
明日も朝が早い。
亜沙子はマンションへ急いだ。
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