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海棠花【ヘダンファ】~遠い約束~
第1章 燐火~宿命の夜~
母ヨウォンは貞淑で優しい夫人ではあったけれど、大方の両班の奥方がそうであるように、我が子の養育にあまり熱心とはいえなかった。ゆえに、梨花にとっては正直、美しく気高い母は近寄りがたい存在で、朴訥で温かなスンチョンの方がよほど身近な存在であった。
スンチョンの良いところは、いつもゆったりと構えているところだ。なのに、今、そのスンチョンの福々とした顔は蒼褪め、緊張のせいか石の像のように見える。
「スン―」
乳母の名をもう一度訝しげに呼びかけた梨花の唇をスンチョンがそっと押さえた。
「しっ」
「―一体、何があったの、スンチョン!」
梨花もまた声を低めた。梨花は六歳ながら、利発な子だった。また、そのときのスンチョンの切迫した様子は到底、尋常ではない事態を予感させるものがあったのだ。
「これから私が申し上げることを落ち着いてお聞き下さいませ」
スンチョンは梨花の小さな耳許に口を寄せ、囁くように告げた。
「これからお嬢さまと私はお屋敷を出ます」
何故―というひと言を、梨花は咄嗟に呑み込んだ。はるか彼方から、人の声らしきものが響いてくる。怒号、悲鳴。それらは次第にこちらに近付いてくるようだ。
幼い彼女にも、自分の身に人生最大の危険が迫りつつあるのが判った。
スンチョンの良いところは、いつもゆったりと構えているところだ。なのに、今、そのスンチョンの福々とした顔は蒼褪め、緊張のせいか石の像のように見える。
「スン―」
乳母の名をもう一度訝しげに呼びかけた梨花の唇をスンチョンがそっと押さえた。
「しっ」
「―一体、何があったの、スンチョン!」
梨花もまた声を低めた。梨花は六歳ながら、利発な子だった。また、そのときのスンチョンの切迫した様子は到底、尋常ではない事態を予感させるものがあったのだ。
「これから私が申し上げることを落ち着いてお聞き下さいませ」
スンチョンは梨花の小さな耳許に口を寄せ、囁くように告げた。
「これからお嬢さまと私はお屋敷を出ます」
何故―というひと言を、梨花は咄嗟に呑み込んだ。はるか彼方から、人の声らしきものが響いてくる。怒号、悲鳴。それらは次第にこちらに近付いてくるようだ。
幼い彼女にも、自分の身に人生最大の危険が迫りつつあるのが判った。