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愛し愛され
第1章 階段室にて

最後のプリンでコースが終わり、自然に店を出ようという雰囲気になった時、ゆらりゆらりと地面が揺れた。
恐らく、ほんのわずかの振幅幅だろう。床が、極めてゆっくりと、動いた。普段、一ミリたりとも動くことなどありえない床が。
店中の女性たちがちいさく悲鳴を上げた。
しかし、さほ子はさほど驚愕の表情を浮かべなかった。ふたりで一本開けた二〇〇七年・白が、彼女から警戒心を解いていた。ゆっくりと、二三度わずかに揺れている間、さほ子の手はテーブルの上にあった博人の手に重ねあわされた。三八階でのゆったりとした揺れの間、博人は自分の手の甲に、さほ子の体温を感じ続けた。
そして揺れが収まると、彼はその手を裏返し、自分の手のひらで、さほ子の手を受け止めた。親指を彼女の手の中心にもぐりこませ、指の腹でそっと、彼女の手を味わった。
このまま大地震が来て、自分達はここで死ぬかもしれない、と確かに思った。
思いながらしかし、恋焦がれた人の肌に触れているという甘美な熱に、博人は酔った。酒よりも強く、酔った。
さほ子はその指を、なすがままにさせた。その瞬間、確かに彼女は心を許し、博人はそのスリットに心の半身を、滑り込ませることに成功した。
もしもう一度、地震が床を揺らしたならば、恐らく博人はさほ子の気まぐれな心を掴み、そのまま先まで突き進んだであろう。もしもう一度、地震がこの高層階のレストランをかすかにでも揺らしたのなら、ここから続くいくつかの出来事は起こらずに、さほ子も博人も傷つかずに済んだだろう。
しかし地震は、一度の揺れで収まってしまった。
ただひとつ、数時間にわたって、エレベーターを非常停止させる、という置き土産を残したまま。
というわけで、甘美な時間は朝露のように蒸発し、さほ子が手洗いに行ったあいだに博人が勘定をすると、地上へ下りるという現実的なミッションが、ふたりの前に横たわることとなった。

