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口琴
第9章 逃避
水しぶきを上げて、近付いてくる人影。

蕾は強く腕を掴まれ、グイグイと岸へと引き戻される。

「聖君…」

それは、厳しい表情の聖だった。

川から引き上げられた蕾は、草の上に倒れ、聖もまた蕾の隣に倒れ込んだ。

体中で息をする聖を、蕾は茫然と見つめた。

「ハァ…ハァ…大丈夫か?…ハァ…いくら呼んでも、お前…聞こえないからハァ…ハァ…ハーモニカ吹いたら聞こえるかもって…ハァ…。でもさ…いくら暑いからって…ここ遊泳禁止だぜ?…ハハッ…。ハァ…また母ちゃんに叱られた?ハァ…」

整わない呼吸の切れ間の、聖の優しい言葉は、蕾の喉につっかえていた塊を溶かし、涙となって堰を切る。

「ウァァーーッ!ウァァーーッ!…」

聖の濡れた白いTシャツにしがみつき、胸に顔を埋めて泣いた。

「……」

聖は一瞬戸惑ったが、そっと蕾の背中に手を添えた。

蕾の涙が止まるまで、黙ってそうしていた…。

どのくらい経ったのだろう…。

蕾がゆっくりと起き、手で涙を拭った。

「…聖君…ありがとう…」

「俺は何も…」

「ううん、嬉しかった。もう、会えないって思ってたから…」

「…何かあったのか?…」

「………」

「言いたくないのか?」

「ほんとはね、聖君に会いたかったの…。でも…私…もういいの…」

「何だよそれ…。一人で抱え込むなよな?」

「…ウッ…ヒック…パパの…ところに逝けば…ヒック…楽になるかもって…ヒック…」

また涙が溢れた。

「…とにかく、服、こんなだし着替えなきゃ。家まで送るよ」

「嫌っ!帰らない!」

「…何で?」

「…殺されちゃう…」

「…え?…」

「…聖君、ありがとう。…迷惑かけてゴメンね…。じゃあ…」

蕾は、そう言い残して立ち去ろうとした。

「っ!痛っ…」

右のサンダルが無く、怪我をして血が滲んでいた。

聖は無言で蕾を背負うと、力強く歩き出し、自転車の荷台に乗せた。

「…え?…」

「いいから、俺につかまってろ」

聖は、無言でペダルを漕いだ。

積乱雲が空を覆い、フラッシュのような稲妻が、雲の輪郭を露にした。

程なく、大粒の雨が灼熱のアスファルトを叩き、埃を舞い上げて白く煙る。

噎せかえる水蒸気と雨を切り裂いて、蕾を乗せた聖の自転車は走った。

雨の匂いと聖の背中の温もりは、蕾を優しく包み、今、自分は生きてるのだと、感じていた。
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