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口琴
第9章 逃避
蕾は走った…。

ただひたすら…。

「ハァ…ハァ…ハァ…聖君…助けて…」

何度も振り返り、誰も追って来ない事を確めた。

もう、あの家には戻りたくない。

大好きな母にも見捨てられた。

梓の事は気掛かりだが、今は逃げる事しか考えられなかった。

殺されるかも…。

しかし、あの中條家でおぞましい行為を受け続けて生きる事を考えれば、死んだ方がましだと思った。

もっと早く、こうすべきだった…。

走った。

とにかく走った。

「ハァ…ハァ…ハァ…」

汗が流れる…。

ようやく河川敷に辿り着いた。

…聖君…。

彼の姿はない。

「ハァ…ハァ…ハァ…」

…喉が焼けるようだ…。

血のような声を絞り、何度も彼の名を叫んだ。

「…聖くーん!ハァ…聖くーーん!」

返事はない。ハーモニカの音も…。

「私…何をしに来たんだろ…。そうだよ…。聖君には関係ないのに…」

自分の愚かさと、自分にはもう誰もいない事を思い知らされ、崩れ落ちて草を強く掴んだ。

汗なのか涙なのか、無数の雫が地面を濡らす。

目の前にアブラ蝉が一匹、白い腹を晒し、弱々しく空を掻いていた。

儚い命の最期に、命乞いをしているのか。それともこの世に別れを告げているのか。

蕾には、この小さな蝉さえ羨ましかった。

儚くとも、自分の命を精一杯生きたであろうこの蝉の一生が…。

いっそ、この蝉のように死ねたら…。

蕾は、煌めく漣を茫然と見つめた。


『Julie…Kommen Sie in der Nähe vom einem Vati…Gut…』
《ジュリー(ジュリアート)…パパの傍においで…さあ…》

微かな記憶…亡き父、ダニエルの声が聞こえる…。

ゆっくりと立ち、幻聴にいざなわれ、水際へと。

「パパが呼んでる…。この川、ドナウ川と繋がってるんだわ…。パパに会いたい!パパ…待ってて…今行くね…」

何の躊躇いもなく、川の中へザブザブと入って行った。

水色のワンピースが濡れ、足に重く絡み付く。

何も感じない…。

音も、風も、水も、光も…。

"無"の中を進んでいた。

流れが、どんどん蕾を深みへと誘う。

胸まで浸かった、その時。


ブァァァーーー!!!

凄まじいハーモニカの音が蕾の耳をつん裂き、ハッと我に返った。


「バカ!お前何やってんだよ!」
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