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禁断の果実 ―Forbidden fruits― 第1部
第68章
言われなくたって、自分でも分かっているのだ。
(もう一回、『悲愴』、弾こっかな……)
そう思い直したヴィヴィの鼻腔を、サンダルウッドの香りが擽った。
その途端、ヴィヴィの表情がさらに曇り、徐々にそれは無表情に近いものに変貌していく。
(……『喜び』って、どんなもの、だったっけ……)
白檀のその纏わり付くような濃厚な香りが、透明な水面に一滴の墨汁を落とすように、じわじわとヴィヴィの心を昏く染め上げていく。
いつもは輝きに満ち溢れている灰色の大きな瞳が、翳っていく。
「今のお前は……これでも弾いてろ」
そう言って匠海が譜面台に置いたのは、エリック・サティの『グノシエンヌ』。
(ああ……確かに今の私には、ぴったりかも……)
「……はい……」
素直にそう返事したヴィヴィは、また鍵盤に指を置いた。
その指から、もの悲しく、また不安定にも聞こえる音色が紡ぎ出される。
普通の楽譜ならある小節線も、拍子記号もないその曲は、時間の概念が自由だ。
第1番の楽譜には『大変 艶やかに』『問いかけて』『思考の隅で』『あなた自身を頼りに』『一歩一歩』『舌の上にのせて』という、複雑な作曲家の指示が書かれている。
第2番に至っては『外出するな』『驕りたかぶるな』等と書かれている、一風変わった曲だ。
ヴィヴィの奏でる音は、匠海が評した通り『混沌』としていた。
匠海も今度は止めてこないので、まあこれで良し、という事なのだろう。
「………………」
ヴィヴィの大きな瞳は五線譜を辿っているのに、その双眸はどこか上の空だった。
(ゆらゆら、する……、頭の芯がぼう……として……。
平衡感覚も、時間の概念さえも、あやふやで……。
酷く憂鬱なような……そうでもない、ような……)
第5番まであるその曲の第3番まで弾き終わった時、譜面を捲ろうとしたヴィヴィの手首を、匠海が掴んだ。
自分の音に悪酔いする様に弾いていたヴィヴィが気に入らなかったのか、匠海に掴まれた手首を引かれ、椅子から強引に立たされた。
「………………」
ヴィヴィは困惑し、乱暴に掴まれた手首を庇う様にもう一方の手で握り、その場に立ち尽くす。