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隠しごと
第3章 痴漢
―――――――
『あぁそうや、俺、今日からこっちに1ヶ月おることになってんわ』
手早く帰る支度をしながら彼が言う。
俺はただぼんやりと眺めているだけ。
『明日、もっかいカラオケ行こうや。せっかく来たっちゅうのになんも歌われへんかったやろ?』
――――――――
俺はバカか。
また同じ場所に来ている。
でも昨日のことがあって逆らうのが怖い。
あの冷たい目が怖いんだ。
そっとポケットに手をやる。そこには無機質で硬いお守り。
(もし何かしらされそうになったら、これを鳴らして逃げる!)
今はこの防犯ブザーだけが俺の心の支えだった。
「なに難しい顔しとるん」
「ひぎゃぁ!」
突然横から顔を出されて心臓が口から飛び出そうだった。
「眉間にシワ寄せて、不細工な顔がもっとひどなるで?」
ニコリと笑うその顔は誰もを虜にできそうな程端正で、音が鳴りそうなほど長い睫毛がレンズの向こうで弧を描く。
(昨日も思ったけど、この男…口が悪すぎるだろ)
楽しそうな相手とは裏腹に、俺は不機嫌になっていた。
「ほな行こか」
自然な動きで夜の繁華街を歩く。
怪しげな光が彼にぴったりで、俺は今すぐにでも帰りたい衝撃にまたもや襲われた。
「人混みがすごいねぇ」
俺は何も言わず、ただ下を向いて少し後ろを歩く。
ドン!
「痛っ」
ドン!ドン!
流れてくる人並みに何度も繰り返しぶつかって押し戻される。
もうこのまま戻ってしまおうか。
幸い、あんまり俺は背が高い方じゃないし、目立たない。
そんなことを考えて
グイ
「ぇっ」
「どこ行ってしもたんかと思たわ」
右手を見ると、僅かに握られた手。
あんまり温かくない。
「はぐれんといてな、探すん面倒いわ」
外すに外せなくて。
違う緊張に包まれる。
カラオケ店について、色々と緊張に手に汗握っていたにも関わらず、何事もなかった。
俺は拍子抜け。
「どないしたん。井上くん歌わへんの?」
「…」
(何で普通に歌ってんだコイツ…いやこれが普通なんだよな…カラオケって歌うとこだもんな…)
疑問を残しつつ、俺はうっぷんをはらすように思い切り歌ってやった。
どうやら俺の気にしすぎだったようだ。
まるで昨日のことが夢みたいに思い始めていた。