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サキュバスちゃんの純情《長編》
第11章 幸福な降伏

 振り向いた先、結構近くに荒木さんの顔があって驚く。ドキドキしたらまた匂いが甘くなるのに、止められない。
 でも、そのドキドキは恋愛感情のものではない、と思う。翔吾くんと健吾くんに、迷惑はかけられない――大半はそういう性質のドキドキだ。

「――それは私と荒木さんの問題で、二人とは関係がありません」
「わかってるよ。二人を巻き込みたくないんだよね。お人好しだなぁ、月野さんは」
「そういうわけではないんですけど」
「奪われるほうも悪いんだから、二人に悪いなんて思わなくてもいいのに」

 ヒィ、と悲鳴が漏れそうになる。これは、マズい。荒木さんがめちゃくちゃ怖い。怖すぎる。
 略奪するよ、って宣戦布告ですよね、それ!?
 体が震えてしまう。怯えたら荒木さんが喜ぶだけなのに、ドキドキが止まらない。心臓がうるさい。
 ほんと、何なの、荒木さん!? 

 エレベーターは二人以外の人を乗せることなく、五階に静かにたどり着く。ようやく、五階、だ。
 停電とかなくて良かった。彼と二人きりで閉じ込められたりしたら、私の貞操の危機だ。精神が崩壊する。
 荒木さんを先に降ろし、私はホッと胸を撫で下ろす。これは本当にマズい。心臓が保たない。生きた心地がしなかった。

「月野さん」
「ひゃい!?」

 そして、急に荒木さんが顔を出すものだから、声が裏返る。ビックリした。

「髪、今日はアップにしないほうがいいよ。うなじのあたりにキスマーク、ついてる」
「っへ!?」

 思わず、首の後ろに手をやってしまう。もちろん、見えもしないし、触れたかどうかもわからないのだけど。
 ケントくんか、湯川先生か、どっちだ!?

「翔吾は静岡で合宿、健吾はまだ金沢、のはずだよね。そのキスマークは背の高い親戚の子がつけたのかな?」
「え? い、いえ、あの」
「すっっごく、興味あるなぁ」

 荒木さんの笑顔が、今、この世の中で一番、恐ろしい。叡心先生の笑顔は、この世の中で一番、安らぐものだと思っていたのに。
 似ている笑顔でも、こんなに違うとは。

「また話聞かせて」

 足取り軽く営業部へ向かう荒木さんを見送りながら、私は足取り重くお手洗いに向かうのだ。キスマークに絆創膏を貼るために。

 あぁ、もう、この地獄から誰か早く解放してください!
 心臓に悪いですっ!

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