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愛してるから罪と呼ばない
第1章 逃避行

* * * * * * *
香凜と美衣子が片岡家を逐電するまで、一週間の猶予を挟んだ。
逃避行までの間、香凜は昼間、舅の会社に駆り出されていた。
舅は、口先でこそ香凜に嫌味や脅迫まがいの文句を浴びせても、例のごとく世間体を気にして訴訟に出ることもしなかった。
それでいて以前のような楽観性もなくしていた彼の嫌味が、香凜に前職を活かした事務スキルを振り分けるという策だったのだろう。
美衣子の行動の甲斐あって、出発当日、香凜はバッグ一つで旅路に着けた。荷物は引越し先に届けてあった。二人、これからハネムーンへ向かいでもするカップルよろしく手を繋いで、まだ乗客のほとんどない早朝の電車に乗り込んだ。
新居は申し分ない。
高級マンションの大家は美衣子の旧友らしく、彼女は優れた展望の部屋を用意して、万が一親族から問い合わせがあっても口外しないことを約束した。
当分は働く必要もない。
工場の管理の継続こそ困難でも、美衣子には蓄えがある。生活がひと段落ついたら、意見を出し合って店でも開くことに落ち着いた。荷物をといて、家事の担当を振り分けて、必要なものの調達へ出かけた。
まるで映画やドラマのワンシーンだ。とりとめない日常は、それまでにもいやというほど経験してきたのに、隣が美衣子に代わっただけで、初々しい感動が香凜を満たす。香凜は浮かれる思いで美衣子の話の一字一句を聞き逃すまいと耳を澄まして、彼女の一挙一動を見逃すまいと、まばたきの刹那も惜しがった。
夢にまで見た蜜月に第三者の介入など、近隣住民に挨拶回りに出るまでは、想像だにしなかった。
「こんばんは、初めまして。今日からこの階に引っ越してきました、──……」
当たり障りのない洋菓子店の手土産を抱えて、この日何度目かの定型文を、今一度反芻しかけた香凜の声がつっかえた。
一人暮らしの女の部屋。
阿邊という表札を見ても特に何も思わなかったのに、呼び鈴に出てきた部屋の主人の顔を見た途端、猛烈な既視感が香凜の記憶をノックしたのだ。
「どこかで、……」
「香凜?」
女の方が口を開いた。まだ名乗ってもいないのに、新入居者の名前を呼んで。
そこにいたのはいつか写真交換までした女──…菜穂と瓜二つ、否、当人だ。

