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第38章 桜
「…市九郎様…この見世に敵娼が居られんしたんではなかったんですか…」

「…ん…それが…まぁ、ココじゃねぇ別んトコに居たは居たンだけっともな…根引かれちまってな…」

※根引く…身受けすること

「ちょうど新しい敵娼を探してたトコなんだ。だからこの見世の遣り手ババァも何も言わなかったろ?」

確かに筋は通る。吉原では、一度敵娼と決め床入りしたら、他の見世に登る事も、他の女郎に手を出すこともできない。だから皆、見聞(ガイドブック)を見たり、通りから籬(まがき)を覗いて、良いと思う女を必死に選ぶ。乗り換えが許されるのは敵娼が死んだり根引かれたり…まぁ居なくなった時だけだ。だから、ひと夜妻と呼ばれる。毎回金を払って会わねばならぬのに、何が妻だ、と莫迦莫迦しく思っていた桜だったが、市九郎が己の客となった今、少なくともこの郷の中で、他の女を抱く市九郎に悋気を起こす必要はないということで、それは素直に嬉しかった。
だがそうなるとあの時市九郎が布団部屋に居た理由がなくなるのだが…そこに気を巡らすよりも、市九郎が己の客になれたことの方が大事だった。だからあの時の事は、そっと胸の奥にしまい、考えるのをよした。
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