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Quattro stagioni
第7章 スタンダールの幸福 Ⅱ
「ああ、そうだ、コーヒー、ありがとな」
「……え?」
荷物を纏めてフロアを出ていこうとしていた中原さんがぽつりと言った。脈絡も、予兆もない発言にぽかんと口を開けると彼は怪訝な顔をする。
「なんだよ。お前だろ、毎朝用意してくれてるの」
「そ、そうです…」
「お前が淹れてくれたやつは美味いよ」
そう言ってくしゃりと笑う。初めて見た妙な緊張のない笑顔だった。これまた想定していなかった表情にぽかんとしたままでいると中原さんの手がこちらへ伸びてくる。思っていたより大きな手。わしゃわしゃとわたしの髪を撫でると、いってきます、と踵を返す。
なんだろう、今の。ああ、なんだ、中原さんはわたしがしていることを見ていてくれたのか。別に誰かに感謝して欲しくてやっていた訳ではないけれど、気付いてくれている人が居るということがとても嬉しかった。
あと、中原さんはあんな風に笑うのか、と思った。わたしが知っている彼の笑顔はぎこちないものばかりだった。それが、どうしたことか、いまさっきの笑顔は自然に浮かんだもののように見えた。
「美月ちゃん、どした?」
「あ、いえ…中原さんが、その、」
「浩志?ああ、今日はなんか機嫌良さそうだったね。ご機嫌なまま帰ってきてくれたら良いけど」
やっぱり、普段とはなにかが違ったみたいだ。でもって都筑さんには当たり前にそれが分かるらしい。
「昨日の業務はどこまで進んでるんだっけ?」
「えっと、昨日のは…、」
ちらちらと清水くんを気にかけながらわたしに問う都筑さん。慌てて中原さんが置いていった日報に手を伸ばす。昨日のページを開いてみると、段々見慣れてきた中原さんの整った文字に視線が吸い寄せられる。
[物覚えが良く、熱心。細かいところにも気を配っている様子。今後も期待します]
自分の評価なんてまだまだ知りたくない上に、私の手元にこのノートが戻ってくる時はいつも隣に中原さんが居るので彼がどんなことを書いているのかなんて初めて知った。こんな風に、思っていてくれたのか。じんわりと胸があたたかくなる。それに気づくと彼を少しでも苦手に感じていた自分が恥ずかしくなった。