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Quattro stagioni
第8章 スタンダールの幸福 Ⅲ
妙に意識せず、俺は俺の出来る限りのことをしよう。そう思って森と接するようにしていても、上手いこと清水を教育していく都筑と自分をつい比べてしまう。
俺は会社が好きだった。自分のしている仕事も好きだった。残業も休出も苦にならない。お前は本当に休出好きだなと言われたって、それすらも誇らしいと思えるくらいだ。
それなのにこの数か月は会社に居ることが苦痛になりかけている。仕事は変わらず好きだが、仕事以外のことで気を張らなければならなくなったからだ。ほっと息をつけるのは日報を書き終えた森が帰宅していく後姿を見送る瞬間だ。あとは、朝一番で彼女が人知れず用意しているコーヒーを一口飲んだとき。
都筑の淹れるコーヒーはとにかく濃くて苦い。起き抜けの空腹時にあんなものをがぶがぶ飲むなんてどうかしている。それに反して森の用意してくれているものは程よい濃さで好みだった。去年の今頃はただのオブジェと化していたコーヒーサーバー。誰かになにか言われたのか、それとも自発的に始めたのか森はせっせと毎朝それの準備をするようになっていた。
そのことに気が付いたのはたまたま早く目が覚めて、そのまま早い時間に出社した日だ。朝の静けさに包まれたフロアで小さな身体がせかせかと動き、コーヒーの用意や資料棚の掃除をしていた。
あの時、声をかけていれば今よりももう少し距離を詰められただろうか。だが、あの日はまだどういう接し方をすべきか分からなかった。
思い出しながらふと森の方を見てみると俺の説明を一言一句書き洩らすまいとしているのかせっせとメモを取っている。小さなノートに綴られていく文字は急いでいるからか日報よりは乱れているが、綺麗な文字だった。
「他は、大丈夫か」
「はい。ありがとうございます」
「おう。またなんか困ったら言えよ」
「はい」
段々と、配属日に感じた不安の色は消えているようではある。はにかんだ笑みを見せることも増えてきているような気はする。