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夏の華 〜 暁の星と月 Ⅱ 〜
第5章 緑に睡る
「…奥様…」
十市が慌てて椅子から立ち上がる。
主人が現れた時は使用人は必ず起立しなくてはならないからだ。
紳一郎は頑として振り返らない。
目の前のすっかり冷えてしまったミネストローネの皿を見つめる。
…振り返らなくても分かる。
紳一郎の母、蘭子の呆れ返るほどの鮮やかな…淫らな妖艶たる美貌は、その気配だけで伝わるほどに色濃いものだからだ。
「寂しかったわ。貴方がいなくて。…あら、また毅市に似てきたわね…」
どこかしみじみした声色で囁く。
くすくすと笑う声…。
紳一郎は我慢ならずに音を立てて椅子から立ち上がる。

「坊ちゃん…」
十市が思わず声をかける。
すると蘭子は今、紳一郎に気づいたかのように振り返った。
「あら、紳一郎さん。お久しぶりね」
…たまに屋敷に貌を出した癖に!息子に会って久しぶりとはなんだ…!
紳一郎は上目遣いに蘭子を見上げる。

…まだアフタヌーンドレスの時間だというのに、白い肩を剥き出しにし、胸の谷間も露わにした真紅のドレス…緩く結い上げられた髪には高価なエメラルドの髪飾りが飾られている。
卵型の練絹のように白い貌、細く優美な眉、長く濃い睫毛、アーモンド型の瞳は妖しく潤んでいる。
形の良いやや上向きの小さな鼻、肉惑的な唇は紅いルージュに彩られている。
蘭子は艶な眼差しで紳一郎を見つめ、薄く笑う。
「母様にご挨拶は?紳一郎さん」
淫蕩な瞳が紳一郎を見る。

何より腹立たしいのは、蘭子が十市の首筋に細い腕を回し、抱きついたままだということだ。
はらわたが煮えくり返るような怒りに襲われ、紳一郎は蘭子を無視するとそのまま食堂を走り出た。

「坊ちゃん!」
「放っておきなさい。本当に愛想のない子だこと。…ねえ、十市。週末遠乗りに行きたいのだけれど、一緒に行ってくれる?」
蘭子の媚びるような甘い声を振り払うように、階上へと続く階段を駆け上がる。

扉を開いて、階上に出る。
磨き上げられた床を踏み鳴らすように駆け抜け、紅い天鵞絨の絨毯が敷かれた大階段を一気に駆け上がる。

…あんな奴…!あんな奴!
何が…何が母様だ‼︎
いつも僕のことなんか放ったからしの癖に!
…あんなにベタベタ十市に触って…!
…あの淫売!あの娼婦!
許せない!許せない!

遣る瀬無い思いをぶつける場所もなく、紳一郎は唇を噛み締めながら母親への呪詛の言葉を繰り返すのだった。




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