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夏の華 〜 暁の星と月 Ⅱ 〜
第12章 その愛の淵までも…
…春の波止場は霞がかり、目の前の巨大な外国客船すらミルクのような靄に覆われていた。

藍川涼一郎は革の大型トランクを持ち直すと、ゆっくりとタラップへと脚を進めた。


…あの事件から1ヶ月、藍川は再び房総の親戚筋の家に療養という名目で預けられた。
茫然自失のまま、誰とも交流せず日々を過ごしていたある日、弁護士の大紋春馬が訪ねて来たのだ。

洒落たスーツ姿の彼は人好きのする柔らかな笑みを浮かべ、口を開いた。
「どう?少しは落ち着いたかな?」
藍川は曖昧に笑って見せる。
「…特に変わりはありませんよ」

…生きることがとにかく大儀で、毎日は虚無感に満ちていた。
精神科医にも患ったが、精神に異常は見られないとの診断で、要観察という名の曖昧な判断をされた。
藍川は、この広い離れで世話を焼く老女とたまさか会話する位の世捨て人のような生活を送っていたのだ。

「僕は暁に君のことを頼まれたからね。…全く、暁も人が好いよ…。
自分を監禁した青年を訴えることもせず、今後の人生の心配をしてやるんだからね」
暁の名前に、藍川ははっと貌を上げた。
大紋の口元は笑っているが、その瞳は真っ直ぐに藍川を捉えていた。
「…すみません…」
藍川は蚊の鳴くような声で呟くと、再び俯く。
「その言葉は、暁に直接言ってやってほしいね」
硬く心を閉ざした端正な青年の貌を見つめ…表情を和らげる。
「…まあ、まだ無理か…」

…暁は、あの事件を警察に届けることも公表することもしなかった。
その代わりに、立ち直り人生をやり直して欲しいと、大紋に藍川を託したのだ。

房総に移ってからしばらくは事件の前後の出来事が夢か現実か…自分自身でも不確かで、靄の中にいるようだった。
だがこの数日、段々と記憶が明確になるにつれ、自分が暁にしてしまったことの重大さに、心は暗く落ち込むばかりであった。

会って詫びなくては…と思いながらも、暁の前に立つ勇気が湧かずに何もせずにいる自分に益々嫌悪の気持ちを抱くばかりであった。
…それに…暁様は、僕なんかに会いたくはないだろう…。
あんな酷いことをした僕なんかに…。

…最愛の染乃の面差しに重なる美しく儚げなひと…。
彼はもう自分を忘れたいに違いない…。
きっと、そうだ…。
藍川は、再び己れの内側に閉じこもる。





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