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夏の華 〜 暁の星と月 Ⅱ 〜
第12章 その愛の淵までも…
出航の汽笛が鳴り響く中、甲板の銅鑼がけたたましく鳴り出した。
甲板には港の見送り客とを繋ぐ鮮やかな紙テープを握りしめ、手を振る人々で一杯になった。

藍川は人々から離れた甲板で、手摺に捕まりながら波止場を見下ろした。

見送り客達から少し離れた場所に暁はいた。
…その傍らには彼を守るように月城が佇んでいた。
二人は寄り添いながら、藍川の方を見上げていた。

藍川は姿勢を正し、頭を下げた。
遠目だが、暁が少し笑ったような気がした。
その白く華奢な手が、優しく振られるのが見えた。


タラップが外れ、吊り橋が上がる。
最後の汽笛が大仰に鳴り響き、巨大な客船は少しずつ大海原へと進み始めた。

小さくなる二人の姿を見つめ、やがて藍川はジャケットの内ポケットを弄る。
手のひらに載せるのは、翡翠の簪だ…。
…あの日、目覚めた時なぜかこれを握りしめていたのだ。

「…この簪はあたしの宝物なんですよ…」
以前、翡翠の簪を褒めてやった時、染乃は嬉しそうに笑った。
艶やかな潰し島田の黒髪に、翠の翡翠はとても映えて美しかったのだ。
「だから、いつも肌身離さず付けているの…」
どこか寂しげな微笑に、堪らずにその花のような唇を貪った。


…染乃は、僕を愛してくれていたのかも知れない…。
次第に激しくなる潮風に髪を靡かせながら、藍川は思う。
…愛してくれていたから、この簪を自分に託してくれたのではないだろうか…。

藍川は簪を愛おしげに撫でると、染乃への想いを抱くように、大切に懐に締まった。

…波止場から、進みゆく紺碧の大海原に眼を転じる。
黄金色に煌めく波間に、眼を細める。
あの、海の遥か彼方にフランスがある。
まだ見ぬ異国…。

そこに、何が待ち受けているかは分からないが、藍川は不意に湧き上がるように、絵を描きたいと思った。

…絵を描きたい…。
今度は…優しくて、穏やかな…誰かを幸せにする…そんな絵を描きたい…。
春の陽光に照らされた藍川の端正な横顔に、初めて柔らかな笑みが浮かんだのだった。

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