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どうか、その声をもう一度
第2章 雨の中、邂逅
笑顔で送り出されると胸が軋む。ごめんと思いながらも俺は一度もそれを声に出したことがなかった。沙英を忘れることで初めて意味を持つ謝罪だと思っているからだ。
マンションを出てから見上げた空は憎たらしい程に青々と美しい。雨が降るとは思えなかったが、昔から彩夏の天気の勘はよく当たった。
鞄の奥底に押し込んだ折り畳み傘が酷く重たく感じるのは、頭の中にちらちらと沙英の表情が浮かんでは消えていっているからだろうか。あの夏から8年。もし、どこかで出会った時、彼女は俺に気付いてくれるだろうか。俺自身も沙英に気付くことができるだろうか。
「…って、これがダメなんだよな」
分かってはいるのだ。それでも、思いださずにはいられない。
一緒に暮らし始めたばかりの頃、彩夏は、秀治の一番になりたい、とちらほら口にしていたが、最近は言わなくなった。なにを思ってその台詞を封じ込んだのかは分からない。諦めたのか、それとも。
悶々と考えながら歩いていると、気付けば最寄駅に着いていた。俺は大学卒業後、都内でベーカリーカフェを数十店舗展開する会社に入った。昨年、入社後に配属された店舗で店長を任されたかと思えば、いつの間にやら新店の店長を任されることになったのだ。
ああ、そうだ。こんなにも沙英のことを思いだしてしまうのは昨日まで新店オープンの準備だと慌ただしくしていたのが幾らか落ち着いたせいだ。今の俺はちゃんと彩夏を愛している。
「せっかく、新店のオープンだって日に、なんつう暗い顔して歩いてんすか」
ぼんやりとしたまま電車に乗り、店の最寄駅で降りると声をかけられた。はっと顔を上げると、前の店からの付き合いの山路諒がどこか呆れ顔で立っている。彼はいわゆる夢追いのフリーターで、アルバイトをしながらバンド活動に勤しんでいる。ひょろりと背が高い優男だ。