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どうか、その声をもう一度
第5章 ひびのおと
おずおずとこちらへ伸びてくる手。触れた瞬間、頭の中にあの夏が甦る。埃っぽい小屋の臭いも、汗ばんだ肌の感触も、抱き締めた沙英の身体が震えていたことも。突然、沙英が姿を消すなんて想像することもなく、毎日毎日、彼女に会う度に惹かれていった。
同じことを繰り返していく毎日の中に予兆も見せず現れた彼女は眩しかった。惹かれないはずがないじゃないか、と思う。あの日、誰かに止められたとしても俺は沙英に惹かれたに決まっている。
手を繋いでいるというにはあまりに不格好だった。僅かに触れていると言った方がしっくりくる。そんな沙英の手を引きながらゆっくりと滑り出す。転ばないよ、大丈夫。そうやってもう一度声をかけると、沙英はこの日初めて俺に向かって微笑んだ。
[ナツメちゃんから私のこと聞いたんでしょ]
しばらく滑ってリンクから上がった。靴を履き替え近くのベンチに座ってリンクの中を見てみると諒とナツメちゃんはまだ楽しそうにはしゃいでいる。自動販売機で買ったあたたかい紅茶のペットボトルを弄んでいると煌々と光るスマートフォンの画面が突き出された。
気まずさを胸に、小さく頷く。画面を引っ込めた沙英は文字を一度消すと新たに何か打ち込んでいる。
[いいの。ナツメちゃんには聞かれたら答えてもいいって言ってあるし]
普段からこういったことはままあったのだろう。慣れた様子だった。口ごもって沙英のスマートフォンから目をそらす。
「俺のこと、覚えてた?」
イルミネーションの眩しさはあの夏の沙英の眩しさには敵いそうもなかった。味気ない毎日を切り裂いた沙英。俺にとっては当たり前のことを珍しがって、小さなことでも笑っていた。秀治、と俺を呼ぶちょっと低くて、でも、優しい声音が耳の奥を擽る。
[忘れたことなかったよ]
ややあって、沙英はゆっくりと時間をかけてその言葉を打ち込んだ。はっと彼女の顔を見つめる。微笑んでいるようなのに眉尻が下がり、どこか情けない表情に見えた。
「なあ、沙英…あの夏、」
どうして君はあの夏、あの離島にやってきたの。どうして俺と毎日を過ごしていたの。どうしてあの日、俺と身体を重ねたの。
訊きたいことはたくさんある。だが、やっぱり俺はいつか思っていたように中々それらを口に出すことが出来なかった。