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あの星に届かなくても
第2章 いびつな日常
少しの間のあと、市川は優しい声で言った。
「望月さんが呼びにきてくれてよかった」
「……っ」
慧子は俯き、小さくかぶりを振った。言葉を返せずに再びそっと見上げれば、切れ長の目がわずかに細められる。
そのとき、レジのほうで「いらっしゃいませ」と紗恵のよく通る明るい声が聞こえた。新たな客が入ってきたのだ。
「じゃあ、またなにかあったら呼んで」
「はい……」
「ラストまでよろしくお願いします」
頭上から振ってきたその低音は、なぜか声の主が立ち去ってからも鼓膜に張りついて離れなかった。慧子はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、ふと自分の視線の先にあるのが市川おすすめの商品であることに気づいて一瞬飛び上がり、急いでその場をあとにした。
それから特にトラブルもなく平和な時間が過ぎ、閉店時刻が近づいてきた。店内に客はいない。
モップで床掃除をしながらレジの近くを通ると、紗恵が立つカウンターの隣のレジで締め作業をする市川の背中が目に入った。二人はどうやらさきほどの男性客の話をしているようだ。あとで紗恵に報告しようと思っていたのに、市川に先を越されてしまった。
「え、そうなの? やだぁ」
紗恵は見た目だけでなく、声も綺麗で艶がある。身体を寄せて耳元で囁かれたときなんか、同じ女でもくらくらしてしまう。あの調子ですり寄られたらどんな男でも落ちる気がする。
慧子は二人の後ろ姿を盗み見た。身長158センチの自分より頭半分ほど高い紗恵は、市川と並ぶと絶妙な身長差になる。
――なんか、かっこいい。
アプリで夜の相手を探している紗恵は、いったいどんな男が好みなのだろうか。そういえば聞いたことがなかった。
――ああいうのをお似合いっていうのかなあ。
慧子は心の中で呟くと視線を自分の足元に落とし、モップを押して静かにレジのそばを離れた。