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あの星に届かなくても
第3章 非日常のくぼみ
不思議そうな顔を向ける祖母に心配をかけないよう、「友達から電話」と言ってこたつから出ると、慧子は和室をあとにした。リビングに入るなり画面をタップし、受話口を耳に押し当てる。
「もしもしっ」
『おう、慧子』
数週間ぶりに聞くその声には覇気がない。いつもはうるさいくらいなのだが。
「どうしたの、こんな昼間に」
『お前が夕方から夜まで働きはじめたって言うから、昼頃まで寝てるかと思って』
「そんなに怠けてません」
電話の向こうから乾いた笑い声が聞こえる。続いて小さなため息のあと、意外な言葉がこぼされた。
『うちの奥さん、消えちまった』
それは、二週間前の夜だったという。兄が会社から帰宅したとき、ダイニングテーブルの上に記入済みの離婚届と結婚指輪が置かれていた。妻の荷物はほとんど持ち出されていなかった。数日間生活するのに最低限必要なものだけを旅行鞄に詰め、理由も言わずに彼女はどこかに消えたのだ。
携帯は通じず、様子を見て一週間待ってみたがなんの音沙汰もない。さらに一週間経ち、もうどうにもならないので、兄は妹に連絡をよこした。
受話口から再び聞こえる落胆のため息。兄の精悍な顔立ちが弱々しく歪むのが目に浮かぶ。
「えっと……まだ服とかたくさん残ってるんでしょ? また戻ってくるかもしれないし、そのときにちゃんと話を……」
『いや、あいつはもう帰ってこない気がする』
「なんで」
『半年くらい前から様子が変になってきてさ。……たぶん、ほかに男がいる』
「ええっ!」
兄の妻のおっとりした笑顔を思い浮かべ、慧子は驚愕の叫びをあげた。