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あの星に届かなくても
第3章 非日常のくぼみ
◇◇◇
少し迷ったが、慧子は今夜もドライブにいくことを決めた。上着を羽織り、財布と携帯だけポケットに入れて、一階に下りるとリビングの扉を開けた。
「ちょっと走ってくるね」
両親は、ソファーに並んで座りテレビを見ていた。「いっておいで」と穏やかに言った父の隣で、母が不思議そうな視線をよこす。
「慧子、また行くの?」
「うん」
「もう……気をつけなさいよ」
「大丈夫だよ、安全運転だから」
軽い口調で返すと、母は呆れ顔を見せたが父は愉しげに微笑んだ。見慣れた反応だ。慧子はキャビネットの上にある車の鍵を手に取り、「行ってきます」と明るく言い残してリビングをあとにした。
外に出て玄関の扉が完全に閉まると、慧子は小さく息を吐いた。黒いセダンの隣に駐車してある、深緑の可愛らしいスポーツカーに乗り込む。
胸の鼓動が聞こえる。あの峠の駐車場に行くのは、なにかを期待しているからではない。いつものように、ただ遠くへ行きたいからだ。そう言い聞かせてエンジンをかけた。
ふだんと同じようにルーフを開け、山に向かって平地をまっすぐに走る。無性に湧きあがる焦燥感を、湿り気を帯びた冷たい風が後方に連れ去っていく。
自分の意のままに操れるのは車だけ――。ギアチェンジで変化していく排気音を感じながら、慧子はそう思った。
峠を走り抜け、穴場の駐車場に辿り着いた。ほかに車が一台もないのを確認して定位置に車を停め、毛布を被り、遠くにぼんやりと浮かぶ夜景を眺める。あの高い山は雲に隠れているようで見えない。空を見上げると、やはり曇っていた。