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あの星に届かなくても
第1章 それぞれの夜
暗闇の中、穏やかに届いた市川の声は、その眼鏡の奥にある目をわずかに細めるさまを想像させる。まるでデートの帰り際の会話みたいだと一人静かに照れる慧子をよそに、「帰り気をつけて」と言い残した彼はエンジンをかけて車を方向変換させると、ルーフを閉めずに走り去った。
遠ざかる排気音を耳で追いながら、風を受けて微笑む涼しげな横顔を思い浮かべてみる。その助手席に乗っているような気分になり、意図せずに湧きあがるそわそわした気持ちを持て余す。
慧子は、星屑を降らせる空を見上げた。
――「星がゴミみたいだわ」
不意に市川の声がよみがえり、慧子は噴き出した。
「あんな普通に話す人だったんだ……」
パートのおばさまたちに可愛がられているとはいえ、仕事中に市川が世間話をする姿は見たことがない。クールで無口で、あの眼鏡の奥ではなにを考えているかわからない。そんなふうに思っていたが、改めて話してみるとその声や空気にはかすかに優しさが感じられた。
「……は……っくしゅ」
鼻をすすりながら、無駄な考え事はやめよう、と慧子は自戒する。心を許したところで、ろくなことにならないのだから。
エンジンをかけ、ルーフを閉めて暖房をフルパワーにする。すばやくバックして方向変換すると、峠の先に進んだ市川とは反対方向に走りだした。
遠くへ行きたい。もっと、遠くへ――。