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あの星に届かなくても
第5章 走りだした焦燥
慧子は息を呑んだ。とっさに俯き、静かに息を吸い、吐く。いつもしているように心の中を無音にして、言葉を探した。
「……嫌なことは、あります。でも、ひとつに絞れなくて、いろんなことが混ざってて」
「うん」
「前の仕事で鍛えられてきたから、我慢するのは身に染みついてるんです。癖が強くて理不尽なこと言う人はどこにでもいるし、いちいち気にしていたら心がもたないから……」
それはもはや市川に向けてではなく、ふだんから自分に言い聞かせてきた言葉だった。せっかく市川が吐露することを許してくれたのに、自己完結しようとしてどうするのだ。こういう瞬間、溢れかえる気持ちをうまく整理して口に出せる人を羨ましく思う。
そんな心を無視して、顔の筋肉は反射的にいつもどおり笑顔を繕おうとする。瞬間、そっと、頭に大きな手が乗せられた。
「……っ」
脳を優しく包まれているような、じんわりとした感覚にめまいがする。不思議と不快ではなかった。市川はなにも言わない。手のひらのぬくもりと静かな息遣いだけが、その存在を実感させる。
「あ、あの、私、これからも仕事頑張ります。まだしばらく迷惑をおかけすると思いますけど……」
なにも答えない市川の手が、二度、頭を軽く撫でた。慧子はその行為の意味を尋ねることなく、黙って頷いた。その手はもう一度だけ頭を撫で、離れていった。
漠然とした焦燥の中に芽生えたこの甘酸っぱい感情は、静かに、ゆっくりと前に走りだす。密かに、いろいろな想いを乗せて。