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アムネシアは蜜愛に花開く
第4章 Ⅲ 突然の熱海と拗れる現実

どうしてそんなことをしてくるの。
これから恋人を抱こうとしているんでしょう?
それを口に出せないわたしは、アムネシアに似た巽の匂いと手から伝わる熱に、眩眩と眩暈を感じながら、巽から顔を背けて浅く乱れた呼吸を繰り返すしか出来ない。
なにも声をかけてこなくなった運転手さんは、きっとバックミラー越しからわたし達を見ているだろう。
自分のものだと主張をしているような巽の手と、それが気まぐれでも嬉しいと思う……恋人を裏切り、過去純潔まで捧げた愚かしい女の顔を。
「東京駅に着きました」
運転手の声で巽の手が外れ、運転手さんに別れを告げて降車すると、人で溢れかえった駅舎の中、わたしは前を歩く巽の広い背を追いかける。
いつもわたしは、巽の背ばかり見ていた。
巽にじっくりと相対する勇気もなかった昔の感傷に浸っていると、向こう側から押し寄せる人の波に押されて、巽の背中が見えなくなってしまう。
「たつ……専務!?」
置いて行かれたということに狼狽して焦れば、ぐいとわたしの手が引かれて巽が現われた。
「お前、何年東京に住んでいるんだ?」
巽はひとりで先には行っていなかった。
わたしを待っていてくれたのが嬉しくて、涙を薄く滲ませる。
「俺が手をひいててやるから、しっかり歩け」
――巽、お姉ちゃんが手を引いていてあげるから、ちゃんと歩くんだよ。
あれから何年経ったのだろう。
わたしが守ってきた小さな背中は、いつの間にか大きく立派になって、わたしを守ろうとする大人の男のものとなっている。
親のような感慨を覚えながら、親には持ち得ない気持ちが膨れあがる。
ああ――、この背中に後ろから抱き付きたい。
昔も今も、ただひとりの女として巽のことが好きだと、胸に秘めた想いを口にすることが出来たのなら。
……儚い幻想は、待ち合わせ場所に行き着くと、忽ち消えてしまった。
「お疲れ様、専務、杏咲」
「杏咲ちゃん、巽くん、お疲れ様」
にこやかな笑顔に迎えられ、わたしは慌てて手を離す。
よかった。
雑踏に隠れたのと、ふたりの視線が上に向いていたから、見付からずにすんだ。
ほっと息をつくわたしを巽がじっと見ていることに気づき、どうかしたかと首を傾げれば、巽は苛立ったようにわたしから顔を背けた。

