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月夜の迷子たち
第1章 鏡の中の世界から
「もうほとんど飲んだじゃない。約束やぶるなら警察に連絡するわよ」

紗奈は内心意地悪な気持ちを隠して真面目な口調で言った。

「警察って・・・・・。わかったよ。今度こそ本当。少しだけでも見せてくれたら大人しく帰るから」
「・・・・・・・」

男の目を見る。こんな時に絵を描いているところが見たいなんて変わった人だ。

紗奈は諦めて描きかけのルーベンスのキャンバスが乗っているイーゼルを男の前まで運んだ。
少し描いたら男が何と言おうと牧場まで行って車を出してもらおう。

「聖母被昇天だね」
「ええ。今は天使を描いてるところ」
「ルーベンスは色彩が豊かだよね。肌の色なんかハッとさせられる」
「本当にそうね。ルーベンスは下地を透かせて肌の色を調整してるの。このあたりの表現も・・・・・とても素晴らしいと思う」

紗奈は肌のトーンの調整をしてみせた。
つい絵に集中してしまって、数分男の存在を忘れて描き込んだ。

「いい顔してる」

男に言われてハッとした。

「ええ・・・・・。ルーベンスの描く人物の表情は何度描いても・・・・・」
「違うよ。君が」
「・・・・・・え?」
「今、描いてる時、とてもいい顔してた」

男の眼差しが暖かく優しさに満ちていて、紗奈はドキリとした。

「ごめんなさい・・・・私、こんな時に・・・・・。あの、氷換えるわね」

紗奈は男性の足に先ほどあてた氷の袋を取り、新しい氷を入れて再び足にあてようと男の足に触れた。

(え・・・・・・?)

紗奈は男の足が異様に熱いことに驚いた。捻挫でこんなに熱くなるだろうか。
急いで手を取り、手の平を強く握る。

(なんて熱いの・・・・!)

慌てて男の額にも手を添えてみる。
やはり熱い。瞳が潤んで見えるのは熱のせいだったのだ。

「すごい熱・・・・・早く病院に・・・・・!」

紗奈はそうつぶやくと、うろたえて立ち上がろうとしたが、男は紗奈の手を掴んで離さなかった。

「行かないで」
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