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滲む墨痕
第1章 嚆矢濫觴
こういうことはどんなに最悪の事態を覚悟して臨んでも、実際に面と向かって口にされれば急に現実感が押し寄せ、思わずその重圧から逃げ出したくなるものだ。重苦しい声色で語る社長と、その隣で瞳を潤ませる女将を交互に見つめながら、沈んでいく思考の中で潤はぼんやりと考えた。
夫の顔は見ることができなかった。
大学卒業後に就職した会社の、三つ年上の先輩だった誠二郎と結婚したのが二年前。当時はまさかこんなことになるとは思っていなかった。実家が老舗旅館とは聞いていたが、誠二郎は地元に戻る気はないと言っていたし、次男の彼が跡継ぎになることはないだろうと潤も思っていた。
誠二郎は基本的に温厚で優しい男だが、物静かで少し頼りないところもある。もし本当に、現在二人で暮らしている東京からこの地に移り住むことになったら……。
ここには潤を知る人は誰もいない。いざというときに守ってくれる人も。
誠二郎と結婚したことは果たして正しかったのだろうか。潤は、漠然とした不安に押し潰されそうだった。