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滲む墨痕
第1章 嚆矢濫觴
書家・藤田千秋(ふじたせんしゅう)を知ったのは、その日の夕食の時間だった。
部屋に料理を運んできてくれた菊池という仲居の女性が、温泉街から車で五分ほど行ったところにある美術館でこの町出身の書家が個展を開いていると教えてくれたのだ。上品な笑みを浮かべた菊池は、「ぜひご夫婦で息抜きに」と勧めてくれた。
彼女にとってはほんの些細な気遣いだったかもしれないが、昼間のことで食事どころではなかった潤にはその言葉が心底救いになった。
そうして翌日、東京に戻る前に夫婦はその個展に足を運ぶことにした。
会場に足を踏み入れた瞬間、潤は骨力のある書の数々に釘づけになった。並ぶ作品を一つひとつ丁寧に見て回り、そのたびに深いため息を漏らした。
字形、線質、白黒のバランス、静と動、潤渇の美。もちろん詳しいことはわからないが、それらの要素は書家の心情そのものを表現しているような気がした。
小学生の頃の自分が得意だった習字とはかけ離れた、ただ美しいだけではない芸術作品。こういうのを書道と呼ぶのかもしれない、と思った。